「けらというものに生まれて泳ぎおり」余語翠巖老師はこの句を好まれて、よく引合いに出されました。決してスマートとはいえないけらが、それなりにこれしかないという風に泳いでいる姿を尊しとされました。また「鴨の足短きも継がば憂いなん」という句もよくお話しされました。

一方で、超能力者や超人的に厳しい修行をする人など、普通の人間ではとても出来ない様な特殊技能の持主をもてはやす世の風潮をよしとされませんでした。その例としてオウム真理教をあげられたことがありましたが、地下鉄サリン事件などで同教団の欺瞞性が白日のもとにさらされたのは、それから数ヶ月後のことでした。

現代は不安の時代といわれています。もっとも現代に限らず 人間はいつの時代にも不安を抱えて生きてきたと思います。お釈迦様の時代もそうでした。それにしても今の時代、その不安心理につけこんで人々をだまし、財産どころか心までも吸い取ってしまおうとする所謂いかさま宗教は後を絶ちません。だます方も悪いが、だまされる方にもそれなりの弱みがあることも否定出来ません。この世にあり得ない様な摩訶不思議さに、つい頼りたくなる心理とでも申しましょうか。

ある時老師は、「この世の中に摩訶不思議に旨い話などあり得ないという摩訶不思議さに気が付けば、人間心が安らかになるよ。」とおっしゃいました。水は高きから低きに流れる以外にあり得ない様に、正法の存在に気付かされる時、我々は惑わされずに生きて行けるということだと思います。修証義にいう「正法に逢う今日の吾等を願うべし」とは正にこのことではないでしょうか。

平成十二年九月発行