前回の拙稿「生きていてこそ仏」で、お釈迦様の次の様なお言葉、「私が求めているのは、どうすれば人は心安らかに生きて行けるのか、そのためには何を実践すればよいのか、正しい行いとは何かということである」を紹介し、そこに仏教の本質があるのではないかと書いた。しからばその実践すべき「正しい行い」とはどの様な行いなのか。悪人だって救われると浄土真宗では教えている。親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。」というかの有名な「悪人正機」のお言葉が、親鸞の弟子唯円坊がしるした「歎異抄」に述べられている。悪人も救われるならば「正しい行い」にどれ程の意味があるのであろうか。善悪を超越したところに宗教の風向があるとはいえ、我々の日常生活に於いて善悪の問題は常に眼前につきつけられた切羽詰った問題ではないだろうか。

さて、「正しい行い」を知るには先ず悪とは何かを知らねばならない。「私は悪いことなんかしていない」という人も、それは法律を侵す様な悪いことはしていないだけのことで、例えば生き物を殺すという悪をしていない訳はない。魚は口にしないという人も穀物や野菜なしには生きて行けない。小松菜だって生きている。この悪という大きな命題を現代の視点で正面から取上げた書物は意外に少ない様である。そんな中で私は最近、山折哲雄著「悪と往生」(中公新書)を読んで、新しい視点を教えられた思いである。その内容を私なりに要約してみよう。

例えばオウム真理教の麻原彰晃の様な真の悪人でも救われるのであろうか。

否である。親鸞聖人の書かれた「教行信証」によれば、悪人でも救われるには次の二つの条件が無ければならない。一つは「善知識」即ち善き教師につくこと。二つには「懺悔」つまりその善き師について深く悔悟することである。この二条件をクリヤすることではじめて、「大無量寿経」にある鉄鎚の様な除外規定、即ち、救われる者から次の者は除くという規定唯除五逆誹謗正法(ただ五逆罪を犯した者と仏法をそしる者は除く)を乗り越えることが出来る。これこそが、人間悪の問題を根元的に思索し、悪人救済の課題をつきつめて考え続けた親鸞聖人がたどりつかれた結論である。

悪人正機のみを書いて、この善知識と懺悔の問題について一言半句もふれていない「歎異抄」の著者唯円は、親鸞聖人の愛弟子の一人であったに違いないが、結果的に師を裏切っている。そして「歎異抄」の持つ甘い毒の妖気に明治以後の学者も侵されてきた。曰く、清沢満之、倉田百三、金子大栄、西田幾多郎、田辺元、みな然りである。唯円のしたことは、キリストを師と仰ぎこよなく敬愛しながら、そのキリストを裏切ったユダに似ている。

この様に、救われるべきでない悪人を指弾しなかった「歎異抄」の著者唯円を、この著者は舌鋒鋭く批判している。「正しい行い」の方向性はこの批判から自ずと明らかになる様に思われる。関心のある方には一読をお勧めしたい本である。

それにしてもである。日本の社会は法律上の犯罪者、「悪人」に寛容過ぎるのではないだろうか。凶悪犯罪が横行する昨今につけても、私はそう思わざるを得ない。