私は奈良の大仏様が好きで、折に触れてお参りしている。あの大きなお姿、おだやかなお顔、そしてあの見上げる様に巨大な大仏殿。いまだに世界最大の木造建築である。これらが千二百五十年前に日本で作られたとは驚きである。当時のハイテク技術の粋を駆使した、正に世界に誇る文化遺産である。これを創った当時の人達の建国の理想、燃える様な信仰心がひしひしと感じられる。いつぞやのこと、たまたま隣に居合わせた外人の女性が大仏様のお顔を見て、「まあ、なんとピースフルな。」と感嘆の声を発したのが印象に残っている。大仏殿で「華厳」という御朱印を頂くのも私の楽しみの一つである。

余語翠巖老師はよく「無限のものが有限の姿で表現される」例として「百草頭上無辺の春」の語句を示されたが、その筆法で言えば、大仏様はお釈迦様の教えのとてつもない大きさと温かさを表現したものといえよう。

お釈迦様は結局、どうすれば人間は安らかな心で生きて行けるかを説かれたのだと思う。最初に神ありきという考えで始まるユダヤ教やキリスト教とは異なり、神は有るかも知れない、無いかも知れない、それより先ず、どうすれば人は安らかな心で生きて行けるかを考えようという教えであって、キリスト教やイスラム教、あるいは仏教という様な特定の宗教を超越した、およそ宗教の入り方、いわば宗教原論の様なものであろう。そして最も現実的な教えであると思う。

物言わぬ大仏様ではあるが、例えばバーミヤンの大仏を破壊したタリバン兵士には、こんな風におっしゃるのではなかろうか。「仕方の無い奴じゃのう。仏像をこわしたらお釈迦様の教えが無くなるとでも思っているのかな。お前達もいっぱしの革命兵士のつもりだろうが、これこの通りわしの手の平の上で遊んでいるのがお分りにならんかな?」と。

昨年はサッカーのワールドカップで日本中が沸いた年でもあったが、朝日新聞にこんな歌が紹介されていた。…「男らがボールひとつを蹴りあいて 争う見れば世は事もなし」。…不景気とはいえ平和な日本である。ところで、このボールをこの世の争い事、宗教、政治、戦争と置き換えてみると、「世は事もなし」とはいかないのが人情ではあるが、それでもしかし、この世のことは、しょせんは大仏様の手の平の上での遊びということではなかろうか。

九条武子のこんな文章を、お見舞いの手紙の文例の中で読んだことがある。…「乱れる心をそのままになんの罪もないと大きく抱き上げて下さる。それが仏の悲願でなくてなんでしょう。祈らなければきいてやらぬとか、信じなければ救われぬとかいう小さな宗教ではあまりに淋し過ぎるではありませんか。」…

お釈迦様の教えの大きく包み込む様な温かさを、ものの見事に表現された文章で、とても味わい深い言葉だと思う。奈良の大仏様が無限のものの大きさでの表現ならば、これは文章での優しさの表現というべきであろうか。