「皆さん、坐禅や祈りの時に頭に浮かんでくる想念を、妄想と、そうでない清らかなものとに区分けすることが出来ますか?」と余語翠厳老師はよく提唱の中で問いかけられました。人間の浅はかな善悪感を越えたところに、仏が存在することを教えられたものと受け取っております。

ところで私事になりますが、私の家は代々浄土真宗で、両親も熱心な信者だったので、子供の頃は毎晩仏壇の前に一家で座って、兄弟交代で蓮如上人の御文章(おふみともいいます)をあげさせられたものでしたが、長じてからは私は却って抵抗感があって、浄土真宗の教えには馴染めず、結局、昭和五七年に大雄山の夏期禅学会に参加させて頂いたのがきっかけで禅の道に帰依したという次第です。

ある時、私は浄土真宗でいう他力本願について老師にお尋ねしたことがありました。「他力とは御前様のおっしゃる「天地のいのち」と同義と考えてもよいでしょうか?」と。すると老師は少しお考えになってから、「そう理解してもよいでしょう。」とおっしゃいました。この「天地のいのち」とは、我々が斯くの如く生かされている宇宙の根源にあるものとでもいいましょうか、老師が好んで用いられたお言葉です。

さて、これで他力の意味がなんとなく分かった様な気にはなったのですが、今ひとつの感は拭えませんでした。ところが、最近(といっても二年程前ですが)こんなことがありました。ふと仏壇にあった古ぼけた浄土真宗の経典を手にとって、子供の頃棒読まみさせられた御文章を読んでみました。曰く、「まず当流の安心のおもむきは、あながちに我が心のわろきをも、また妄念妄執の心の起こるをも、とどめよというにあらず。ただあきないをもせよ、奉公をもせよ。猟すなどりをもせよ。かかる浅ましき罪業にのみ朝夕まどいぬる我等如きのいたずら者を助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞと深く信じて….(云々、後略)」とあり、「弥陀如来の本願」を「天地のいのち」と読み換えれば、蓮如上人が約五百三十年前に書かれた御文章

も、冒頭の余語老師のお言葉と全く同じ趣旨に受け取れるではありませんか。

浄土真宗であれ禅宗であれ、あるいは他力といい自力といい、行き着く所は同じなのだという思いに至りました。間違っているかも知れませんが、自分なりにこれで納得したつもりです。

それにしても、子供の頃から折に触れて読まされたこの御文章を、大方半世紀の間、自分はでは何も分からず全く上の空でしか読んでいなかったということを思い知らされたことでもありました。

平成十二年十二月 記