この六月初めに翠風講の皆さんと京都に道元禅師ゆかりの地を訪ねた旅行会は、実に楽しくもまた心豊かな旅であった。宇治の興聖寺に始まり、東山の禅師荼毘の塔、四条烏丸の禅師示寂の地の三箇所で、小松さんの先導のもと、一同声を合わせて般若心経を唱えた時は、鳥肌のたつ様な感激を覚え、お参りに来てよかったとつくづく思った。いささか大袈裟かもしれないが、道元禅師は命の恩人だと私は思う。「自己をならふとは自己をわするるなり・・」と心の持ち方を教えられたからこそ今日の私がある。「耳と肩と対し鼻と臍を対せしめんことを要す・・」のお蔭で常に背筋を伸ばして日常の生活をしていられる。そんな私にとって今回の旅は道元禅師へのお礼参りであった。

ところで、道元禅師はもともと京都の人である。禅師は西暦一二〇〇年に京都でお生まれになり、一二五三年に京都で亡くなっておられる。その生涯の間に、二十四才から中国の宋で修行された足掛け五年間と、永平寺での晩年の約十年を除くとその殆どを京都とその周辺で過ごしておられる。しかも、日本の仏教界にあれ程偉大な足跡を残された方である。にも拘らず、京都での道元禅師ゆかりの地は数少なく、いずれもひっそりとした佇まいである。地元の人によるお祭りらしきものも無い。また、何百とある京都の寺の中で曹洞宗の寺は数える程しか無い。ほぼ同時代の人である法然聖人や、親鸞聖人、日蓮上人などに比べても、京都における存在感はいかにも薄いと感じざるを得ない。

中には、道元禅師ゆかりの地をこんなに侘しい状態にしておいてと嘆く人もいるが、私はそれはそれとして、現在の佇まいが却って赴きがあってよいと思っている。むしろ、これでこそ道元禅師らしいとさえ思う。今回も、ひと気の無い場所に翠風講の我々だけがお参り出来て却ってなにか禅師のお傍に近づけた気がした。

そもそも、道元禅師が何ゆえに京都の人にとって馴染みが薄いかを考えてみる。第一に、禅師は中国天童山の師、如浄禅師の教えを固く守り、時の政治権力の中枢である京都、鎌倉には終始背を向けて距離を置いておられたこと。第二に、禅師の教えはあまりにも高邁で、また、出家主義といわれるほどに出家僧の教育に力を入れられたので、当時の一般民衆には理解出来ず、馴染みが薄かったこと。第三に、禅師が高貴な貴族のお生まれで(父君は時の内大臣久我通親公、母君は太政大臣藤原基房公の娘)(もっとも、妾腹の子という説もある)、いわば良家のお坊っちゃんで、几帳面で綺麗好き、しかも妥協を許さない性格で、一種近寄り難い雰囲気を持っておられたこと、などなど理由はいろいろあげることが出来る。

しかし、更に視界を広めて禅師が生きておられた頃の時代的背景に思いを巡らしてみる。この時代、日本のみならず東アジアは激動の時代であった。日本では、平安時代の貴族政治から鎌倉時代の武家政治への変革の時代であった。一方、大陸では唐が亡んで宋など小国に分裂し、波乱の時代を迎えていた。蒙古ではチンギス・ハンによる蒙古帝国が勃興、遠く欧州にまで版図を広げつつあった。道元禅師がお生まれになった西暦一二〇〇年を基準にすると、源頼朝が鎌倉で亡くなったのはたった一年前のことである。

禅師が中国から帰国されて宇治川のほとりに興聖寺を開かれた時は、かの有名な宇治川の合戦があってからまだ半世紀もたっていない。既に源平の争いは終わっていたとはいえ、戦乱の絶えない時代だっただけに、一般民衆は塗炭の苦しみに喘いでいたであろう。想像するに、当時の寺々には命からがら逃げ込んで来て僧になりすました敗残兵あがりの荒くれ男達も少なくなかったのではなかろうか。

そう見てくると、道元禅師が興聖寺、そして後に永平寺と道場を建てられ、出家主義といわれる程に僧の教育に力を注がれた理由が理解出来るような気がする。日本に於いて真の仏法を伝えるには先ず出家僧が戒律のなんたるかをわきまえ、姿勢を正し、その上で一般民衆を導く様にしなければ駄目だと考えられたのではないだろうか。正法眼蔵の洗浄の巻(第五十四)などを読むと、その感を深くさせられる。ここでは手洗いでの作法を、おしりの拭き方まで事細かに書いておられる。こんな仏典は他にあまり例を見ないのではないだろうか。

「弘法救正」(こうぼうぐしょうー多くの人に法を伝える)の念を持ちながらも、まずは出家者に対して「一箇半箇の接得」(いっこはんこのせっとくー僅かな人でもよいから本当の法を伝える)に重きをおかれたのであろう。(梶山全道―大雄二〇〇四年錦繍号より)その意味では禅師から溯ること約五百年前、奈良時代に唐から渡来して、出家僧の戒律の確立に尽くされた鑑真和上の果たされた役割に似ていると思う。

もしも、禅師がもっと平和な時代に生きておられたなら、弘法救正に力を注がれたかも知れない。道元禅師といえば近寄り難い厳しいイメージであるが、本当は、心根の優しい慈愛に満ちた方だったに違いないと私は思うのである