御垂示 おまかせの日々 余語翠巌

新年おめでとうございます。毎年賀詞を申上げて新しい年を寿ぐことであります。心からおめでたいのであります。昨年ヨーロッパへ旅した人が、「北極の上を飛びながら、喜怒哀楽のできることは何と素晴らしいことかと思いました」と述懐されたのを聞きました。さこそと思います。白皚々たるすがた、死を連想するすがたを見て、人間のやっさもっさの世界を再び歓喜の思いで受けることのできるすばらしさであります。禅門のめざす世界は、ひとたびは人間ぼけしているありさまから、人間の世界だけで通用する善悪美醜の世界から脱け出して、天地のすがた、天地一杯の道理に承当することであります。その天地一杯のものに抱かれて喜怒哀楽して、月日を享受するすがたを、こよなく愛しうることのすばらしさに気が付く時、人は安心して悲しみ、安心して喜ぶことができます。仏さまの御手の中の一呼一吸に安んじることができます。

どなたの年賀状であったか、「やむを得ず八十を超えました」とありました。素直な言葉であります。お互いにいくつまで生きる保証はないのです。老年になると「「だんだん先が短くなりまして」と云われる。今、この時、いのちの絶えることも、御仏のはからいであることを思えば、一日一日はもうけの一日一日であることになります。一日づつ授かりの一日であります。そこに安心の一日があります。いのちの長短は天地のはからいです。

おまかせの日々であれば腹は立ちませぬ。自らのはからいの日々はあわれな日々です。世の中でのお互いの生業は種々の因縁によって浮き世のつとめであり、いろいろ生業のちがいはいのちの根本に直接つながることではないのです。どのような心構えで、夫々の生業にたづさわるかが大切なこととなります。その心構えが御信心につらなり、宗教心に深くみたされてあれば、自ら親切な仕事ができます。お客様は神様であるなどと意識している間は、遠くして遠いのです。そういう意味合いで、本年もお授かりの一年が新しく開ける。

各々のはからいの世界ではないことを思うて新年を寿ぎたいものです。

昭和五十五年九月 余語翠巌老師著 「去来のまま」より