作家の山田風太郎さんが亡くなられたことを新聞で知り、もうこれから作品が出ないことを寂しく思う。あの名前も好きだし淡々とした語り口が好きだった。七十九歳と六ヶ月であった。私は、彼が得意とする捕物帖よりも雑文随筆の類が好きであり、本屋で彼の名前を見留めると何でも買いたくなった。

風太郎さんは、両親が早くに亡くなり、戦争中、誰一人知人のいない東京で酷烈無比の耐乏生活を強いられ、二十歳前後にしてその辛さは骨髄まで染み着いてしまったそうだ。喰うものがない時代だから、何処へ行っても腹を満たしてくれる見込みはない。一日に一度、トウモロコシを入れたお粥を口にすることが出来れば幸福であり、飢えを忘れるために本ばかりを読んでいたそうだ。昭和十九年から昭和二十一年にかけては特にひどい食料事情であった。ある日、食堂に入ったらリンゴの皮を出され、さすがの彼も驚愕したという。「リンゴの中身は家族で食べちゃって皮だけお客に出したのだろうか。あの時、日本も終わりだと思ったね」と、彼は述懐している。

彼がものを書くようになったのも、早くに両親が亡くなり親戚中をたらい回しにされたりしたために孤独を好むようになり、いつも自分は「列外」にいるという感じが身に付いてしまったからだという。その後、日本は思いもかけない発展を遂げて、昔そんなことあったのという有り様になったが、彼の友達は戦争で大勢死んでいるので、クラス会というと靖国神社や千鳥が淵に行くのだそうだ。

外出をあまり好まず、「毎日一人で陽も沈まぬうちから、卓上に妻の手料理を隙間無く並べて、ウイスキーの水割りをチビリチビリやっているのが一番いいね、戦時中がもたらした傷だね」と、言う。もっと早く死ぬつもりで、「早死、十箇条」を作り、その内の九箇条くらいは実行していたそうだ。ウイスキー、一日に三分の一本。タバコ、一日に六十本から八十本。しかし、百害に一利あるのか「だけど死なない」。「一向に故障が出ない。みんなは死んでいき、僕だけ生き残っている」という思いにかられていたということだ。

ある日、奥さんについてデパートの地下食品売場へ行ったそうだ。溢れんばかりの食品の量と質を見て、その多彩さに圧倒され感動し思わず何度も叫んだという。「戦時中に死んだ連中はみんなここに居るね。自分たちの死後、この豊かさがあるという安心と怨みをともに抱いておるね」。

戦時・戦中派は、この世から、日毎いなくなっていくが、実際に残酷と悲惨をこの眼で見てしまった人間は、何に対しても怒る力をなくしてしまって、風太郎さんのように「水のように笑う」人が多いように思う。すべて運命の巡り合わせだから呑み込むほかは無いのだ。