坐禅をこころざして初めて総持寺日曜参禅会の門をくぐったのは昭和五十八年の五月、よく晴れた日の午後だった。真っ先に叉手(しゃしゅ)の作法を教わり、参禅寮の

若い雲水さんを先頭に、一列になって長廊下を伝ってゆくと、何とも言えぬ爽やかな気持ちで一杯になった。それからは大雄山最乗寺の夏期禅学会、月に一度の駒込吉祥寺の坐禅会にも熱心に参加した。

何もかもが新鮮な体験の中に、特に印象深く映ったのが警策である。面壁する障子に巡香の坊さんが捧げ持つ警策が静かに動いてゆく時、まぎれもなく禅堂に坐っている思いを実感して、身のひきしまる思いがした。

数年が経ったある日、総持寺の衆内単に坐っていた私は巡香の坊さんの気配を察して合掌し、策励をお願いした。力強く入ってきた警策は私の肩で真っ二つに折れた。カラカラと音立てて勢いよくたたきの床をころがってゆく音が静寂の中に響きわたった。一瞬、そのさまを振り向いて確かめたい衝動にかられたが、坐禅中の身とて微動だにしないよう、そのまま坐り続けた。周囲の大衆も水を打ったように静かだった。

その日の参禅会が作務を終えた時である。「折れた警策を記念にもらって来たらどうですか」 仲間の一人がそそのかした。その言葉につられてその気になり、参禅寮に行くと老師は不在で、係りの雲水さんが二,三人居合わせた。今後の励みに是非頂戴したいと申し出たが、「これはお寺のもんですから差上げるわけにはまいりません」と、断られてしまった。

その後、懇談の席で老師にこの体験を申し上げると、「警策はよく折れることがあるのですよ」と何事もないように話された。それから十数年が過ぎ去った。

私にとっては尊い策励を頂いた思いで、今もあのカラカラと床をすべっていった警策の音が耳に残っている。その後、二度と同じ体験を頂くことはなかった。