自然を愛し、子供を慈しみ、毬つきに興じる良寛さんは、今や地元観光の目玉ともなり、癒しの対象とも言えるほどに人々に親しまれている。しかし、今回翠風講の旅行会で、彼の生まれ故郷、越後の出雲崎をはじめそのゆかりの地を訪ねてみて、今までのイメージとはいささか違った良寛さん、骨太で、反骨の気概を内に秘めた厳しい良寛さんを垣間見ることが出来たというのが、今回の旅の私の感想である。

その発端は和島村の隆泉寺にある良寛さんのお墓にあった。良寛禅師之墓と大書されたた墓石の右下にびっしりと細かい字で刻まれた僧伽(そうぎゃ)という良寛さんの漢詩のことである。これについては実は予め同行の風間さんからその存在を教えて頂き、またその全訳のコピーを頂いていたのであるが、実際にこれを目の当たりにして強烈な印象を受けた。それは今までの良寛さんのイメージを一変させるに足るものだった。この詩の中で良寛さんは当時の仏教僧の堕落ぶりを痛烈に批判している。風間さんが師事された飯田利行老師の口語訳を参考にして抜粋すると、「髪を落として 出家して 乞食(こつじき)して体を養う 自分は既にかくの如くである・・ところで いま僧門の人々をみるに 昼夜みだりに読経して喚いている ただ口腹を満たすための故に・・出家の身で道心をもたない者は その心の汚れをどうしたらよいか・・僧侶と称して修行もせず 悟りもない ただ檀家からの布施を浪費するばかり・・ただ旧套を守り朝な夕なを過ごすだけ 外面はもっともらしい顔をつくろい 素朴な田舎の婆さんたちを騙している 世間では かかる輩をやりてだという ああ何時彼等は眼を覚ますのだろうか・・今よりつらつら思いはかって 汝は態度を改むべし・・」という大意である。

十年余りに亘って備中玉島の曹洞宗円通寺で修行を積んでいた良寛さんが、三十四、五歳の頃であろうか、突如寺を抜け出して放浪の旅に出、四十歳の頃になって忽然として生まれ故郷出雲崎に近いこの地方に現れて、一人乞食の生活に入られたのには、余程のことがあったのであろう。当時の寺の僧達の俗っぽさに我慢ならなくなった末のことだったのであろうか。ともかく良寛さんは、曹洞宗から飛び出した反骨の士だったことがこの詩から伺える。そういえばこのお墓のある隆泉寺が浄土真宗西本願寺派のお寺であるのも何か意味有り気である。どういう事情でこの詩が墓石に刻まれたのであろうか。また、言うならば「はみ出し者」の良寛坊を曹洞宗がどう評価しているのであろうか、さて良寛さんは、七十四歳で亡くなられるまで、俗にあらず沙門にあらずと、草庵での生活を続けられたのであるが、それは傍目から見るほど生易しいものではなかったであろう。草庵での独り住まいというと風流に聞こえるが、普通の人は三日もやれば尻尾を巻いて退散であろう。国上寺の境内にある五合庵を見て私はそう思った。殊に良寛さんの時代、越後の冬は今よりもずっと雪深く厳しかったであろう。それに定まった家も家族も持たない淋しさも、時には耐え難いほどに感じられたのではなかろうかと想像する。そこに想いを致すと、良寛さんの歌このみやのもりのこしたにこどもらとあそぶはるひはくれずともよしには、子供達と遊ぶ楽しい春の日ののどかなひとときを歌いながらも、「ああ、この子らは家に帰ればお帰りと言ってくれる家族がいるが、自分には庵に帰っても暖かく迎えてくれる家族もいない」と、ふと良寛さんの心によぎった孤独感、淋しさの表現を感じてしまう。

思うに、良寛さんは寺という仏教教団での生活に馴染めず、本当の意味で家を出た人、出家した人なのであろう。家を出るということがどれだけ厳しく、辛い生活を強いられるものなのか、我々俗人には測り難い。それでも良寛さんにはその厳しさを大上段に構えた所が無い。風にそよぐ葦の様に自然体である。「なんとなくこういう生活になったのじゃ。」と良寛さん御本人は微笑まれそうである。ともかく良寛さんは余程底の抜けた人だったに違いない。ここまで底の抜けた人は世の中にそういるものではない。それが彼の詩歌や書にそのまま現れている。一介の僧良寛さんが今でも人々に親しまれ愛されているのはそのせいであろうか。

良寛さんの道元禅師への想いは非常に深かったようである。良寛さんには、道元禅師への帰依という座標軸があったからこそ、あの様に自由三味な人生を送ることが出来たのかもしれない。その道元禅師の正法眼蔵は当時の仏教教団の通俗ぶりを批判して、仏道修行かくあるべしと書かれた批判の書とも言われるが、僧伽という良寛さんの漢詩もこの線上にあると解釈出来る。同じ様に、今回の旅行会「良寛さんゆかりの地を訪ねて」も、前回の旅行会「道元禅師ゆかりの地を訪ねて」の程よい延長線上にあるように思われた。

終わりに、今回の旅で私共が知らなかった史実をいろいろ御紹介頂いた風間さんに改めて謝意を表したい。

(平成十九年八月)