初めて一文を寄せさせていただきます。翠風講に初めて顔を出させていただいて約二年、それも一度出たきりだけなので申し訳なく思っています。二年前、東京は別院長谷寺の報恩攝心で小松勝治様とご一緒になりました。攝心の合間、小松様が余語老師のことを話しているのを聞き、老師に関心のあることを伝えたところ、翠風講のことを教えていただきました。

そもそも私が坐禅をするようになったのは、もう二十何年も前の大学浪人の頃、澤木興道和尚の本を読んでからです。アルバイトと受験勉強をしながら将来を暗中模索していた頃、たまたま手にしたのが興道和尚の本でした。興道和尚の言葉は自分にとって衝撃でした。自分がどんなに刻苦勉励、苦心惨憺もがいていたとしても、それは只自分の‘鼻の下と神経痛’、我欲のためにしているだけということと、またそうでない世界があるということを知りました。一方で、自分の人生は大学卒業後も暗中模索は続き、しっかりした目途もなくアルバイトをしながらさ迷っていました。坐禅の方もお寺には行かず、自分の部屋で坐るという日々でした。また、自分にとっては無茶な海外渡航を敢行したりと、一向に定まらない人生に段々追い込まれて行ったように思います。

が、あることを契機についに定職につく決心をし、またお寺にも再び通いだすようになりました。十数年前のことです。仏教書も再び読み始め、余語老師の本にも出会いました。老師の、どう転んでも仏性上のこと、根源の命からはずれるものはない、どのようなあり方をしても良いのだと知らされて、とても気が楽になりました。興道和尚からは生きる勇気を、余語老師からはある種、癒しのような‘安心’をいただいたように思います。仏教を学ぶことがまた楽しくなりました。老師の言葉は自分にとってまだ理解し難いところがあります。これからもゆっくり勉強していこうと思っています。