「我のみは不可解にして人はみな 答えをもちているらしくみゆ」

これは私が四十歳の頃、朝日歌壇に載った、当時の心境を歌ったものです。人間をはじめこの宇宙は、何故、存在するのだろう。一体、人生の意味は何なんだろう。こうした疑問は、誰でも一度は心の内に抱くものではないでしょうか。

「人間の存在及び死」という、この宇宙の大きな神秘の謎を解きたいという思いに駆られてどうしても落ち着かず、一生懸命、私なりに学んでみました。モハメット、キリスト、釈迦は言うに及ばず、先哲の中にその摂理を見出そうと多くの本も読みました。しかし、我々は何を目的に生きるのか、存在のあとの死の意味は何か、について得心のいく答えは、いまだ見つからずじまいです。昆虫学者のファーブルもその著書の中で「自分が抱いているような人生の疑問に答えてくれる一冊の本を求めて止まなかったが、無かったので、四十歳で放棄した」と、書いています。

さらに、「私は生涯慄然として、不思議だ、不思議だと、頭の中でつぶやいていた」と、山田風太郎。
「人が死ぬと、万事終わったとして、それ以上、死について考えることを止めてしまおうとする」と、夢窓国師。

「私も証明できないが、大きな力がこの世を支配している。宇宙は盲目的力が偶然結合したのではなく、叡智ある力によって動かされている一定の体系であることを信じている」と、アインシュタイン。

「この宇宙がどのようにして出来てきたかは、ほぼ解明されてきた。しかし、何故、出来てきたのかは分からない」と、ホーキング。

「今までの哲学が間違っていたのではなく無意味なのだ。何故こんな世界があるのかその不思議に打たれた」と言う、ヴィゲントシュタイン。

「あちらへ行きたいんだよ、あちらがどんなか見たいんだよ」と、病床でのミヒャエル・エンデ

「要するに、死というものは無への消滅ではなくて、蝶がマユからかえるように、肉体からの解放なのだ、ということだと思う」と、遠藤周作。

「この世界の根本原理は自業自得である。自ら業をなし、自らその果を受けるのだから、本当に依るべきものは、ただ自分自身より他は考えられない。私の一言一行が自分の人格を作りつつあるのである。

さあ、私の魂よ、お前は永い間、閉じこめられていた。今こそ牢獄を出て、この煩わしい肉体を脱いでいくのだ。喜んで勇敢にこの分離に耐えなければならない」と、デカルト。

「人間の魂は死ぬものではないと知れ。肉体は生まれたり死んだりするが、魂は生き通しに生きているのだ。この世にいる間は魂を自由にさせないのだ。肉体は魂の牢獄なのだ」と、山田霊林。

「死は、心が肉体から解放されるのだ。生と死の無限の連続から逃れる方法を説いたのが仏教なのだ。釈迦は解脱して輪廻転生から下りて死んでしまった」と、橋本治。

「人間は誰でも、久遠の過去の積み重ねの上に今日が築かれているのだ。この過去を切り離して現実だけを割り切ろうとするから、分かりにくいことが沢山出てくるのだ」と、松原泰造。

「輪廻転生抜きで人間の人生を腹の底から、うん、そうだと納得させるのは難しい」と、山折哲雄。

「生命は無明によって動かされているのだ。無明というのは、生きようとする盲目的意志である。釈尊は成道の暁に無明生死の夢さめて霊界を照見されたのである」と、数学者、岡潔の師である僧、弁栄上人。

「釈尊の偉大なる放棄、この世界のありように関心を持たれた。そして、心から放すことが出来なかったのだ。王に強いられたのでもなく、負債に苦しめられた訳でもなく、凡てを捨てて修行に身を投じられたのだ。七年、いろいろの師の下で修行され、身体を苦しめるだけでは駄目だと瞑想に替えられて或る朝、悟りをひらかれた。そして、あと一ヶ月、ずっと悟りの内容を吟味されたのだ」と、寺田寅彦。

「釈尊は、科学的真理を発見したのではなく、宇宙と人間に通ずる法を悟られたのだ。誰も知らず存在していた事実を初めて見出したことになるのだ。発見は自分の外側に見出すことだが、悟りは向こうから来て自分の内側に会得して人生の真実を頷き取ることである」と、中谷宇吉郎。

「唯佛与佛乃能究尽諸法実相、仏法は人の知るべきにあらずと、全く情け容赦もないが、それが唯佛与佛ということなのだ。その境地に至っていないが故に聞かせて頂けないのだ。人間が賢くなって謙虚になったとき、(心が清らかになれば)宇宙の神秘や法則が理解できるはずだ。地球を造ったのも人間を創ったのも我らではない」と、横尾忠則。

お釈迦様のお悟りの内容を書いたものはありません。華厳経には、お釈迦様が苦労して漸く得られた法は、それを聞いた佛と佛とがやっと頷き合うことができるとても難しく特別なもので人間存在の有り様を語られた十如是の理法であるが、たとえお釈迦様が説法したとしても、自我を喜び自我を楽しんでいる人には理解できず、お釈迦様がただ疲れ果ててしまうだろう。舎利子が三度も(説法を)頼んだが、お釈迦様は沈黙に入ってしまわれたと書いてあります。お釈迦様のお悟りの内容は、華厳経によると、いわゆる諸法の十如是が本末究竟の十の仕方で存在し生起すると言うことです。これが諸法実相です。

これを知って、私には、まだ、お釈迦様のお悟りを知る資格が無いとわかり、それを知りたい気持ちはすっかりなくなりカラリと晴れました。自分自身を浄福にしなければ駄目だと分かりました。

九十歳になって、私の人生はこれだったのか、此処まで来るのが私の切符だったのかと思い至る日々です。では、落ち着いて美しい青空でもながめよう。