かなり以前の事になるが、浅草のたしか報恩寺というお寺に、親鸞上人と道元禅師が並んで座っておられる二体の仏像が安置されているのを、NHKのテレビで見た覚えがある。親鸞上人が道元禅師の手を取って、あたかも貴方がやってくれれば私は安心だと後事を託されている様なお姿であった。

こんな出会いが実際にあったかどうか、興味深いところであるが、記録には一切見当たらないそうである。ただ、時代考証的にいうと親鸞上人(一一七三―一二六二)、道元禅師(一二〇〇―一二五三)故、有り得ないことでは無かったと思われる。ただ、上人よりかなり後輩の禅師が先に亡くなっておられる。そして仮にお二人がお会いになったとしても、只管打坐で、厳格な出家主義であった禅師が、絶対他力で、妻帯もされていた上人のお言葉を素直に受け入れられたかどうかは、想像をめぐらす以外にない。

しかしながら、我が師余語翠巖老師においては、他力は非常に近しい存在だったと私は思っている。前にもここで書いたが、老師は我々が斯くの如く生かされているこの宇宙の根源にあるものを表現して「天地のいのち」という言葉をよくお使いになったが、これを他力と考えてもよいでしょうかとの私の問いに否定はされなかった。

そして、「人生に絶望して死のうと覚悟した人が、大便をした時に、ああ自分はこんなに夜も眠れずに悩んでいるのに、自分の預かり知らぬところで体が働いてくれて、ちゃんと夕べ食べた物を消化してくれている。心臓も動かそうと思わないのに動いてくれていると気が付いて、死ぬのを思い止まった。」という話をよくされたのを覚えている。

生かされている自分をお任せするという思いは、正に他力本願そのものではないかと私は受け取らせて頂いている.