ある時、余語翠巖老師が翠風講の集まりの御挨拶で、「こんな風にみんなが集まるのを等閑(なをざり)に集まるという。等閑(とうかん)に付すというと普通には{おろそかにする}とか(いい加減にする)という風にあまり良い意味には使われないが、禅の世界では等閑(なをざり)にというのは(なんとはなしに)という意味で、それが尊いのですね。」とおっしゃったことがあった。

このことを今年の 総参拝の席でお話しした次第であるが、等閑にという言葉を辞書でひもといても「なんとはなしに」という意味は出て来ない。従容禄の第四則に、「等閑に手を携えて紅塵に入る」という句が出て来る。老師が好んでよく話された「百草頭上無辺の春」のすぐ後である。これがどういう意味なのか、もう老師にお聞きすることも出来ない。強いてこじつければ、「閑」という字は禅語では「天地一杯のいのち」の意に用いられる非常に意味深い字故、「天地一杯のいのちに等しい動き」から、「静かに落着いていて、ゆったりしている」つまり「なんとはなしに」となるのかも知れない。

閑話休題。先日山田紀綱老師に挨拶に伺った際、翠風講も御多分に漏れず高齢化して集まりも悪くなり、続けることの難しさを感じているとお話ししたら、老師いわく、実はお山でも過去に安居した僧の間で安居会という一種の懇親会があるのだが、ひところすたれそうになったので、もっとしっかりした規約を作ったらどうでしょうかと余語老師に相談に行ったら、「規約なんか作るとそれにしばられて苦しくなるよ。却ってそれで人が来なくなるかも知れん。もっと自由にやった方がいいのじゃないかな。」といわれ、規約を作ることを止めてしまったら、却って長続きしておりますとのことだった。

物事は始めるよりも続ける方が難しいとよくいわれるが、そんな中でこのお話になにか続けることのヒントを頂いた様な気がした。考えてみると翠風講にはこの冒頭にかかげた藤田彦三郎氏の文章以外に規約らしいものは何もない。それでも「なんとはなしに」引き継がれて今日に至っている。歎異抄に「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることあるをも…。」とあるが、翠風講も来る者は拒まず、去る者は追わずといった調子で「なんとはなしに」続いている。不精者の言い訳ではないかとお叱りを受けるかも知れないが、これからも「等閑(なおざり)に集う」講である方が長続きするのかも知れないと思う昨今である。