禅とは何かについて前稿にて少し書きましたが、今読み返してみると、これは禅以前の話でした。今年に入って(二月から八月にかけて)いろいろな事が私の身の回りにありました。一番私の心に響いたのが昭和五十四年以来からの同僚から言われた言葉でした。言われた事を要約すると、第一に総て差別で人を見ていること、第二に人の立場にたってものを考えるということが不足している。第三に実行力に欠けるという三点であります。冷静に客観的に考えてみると、その通りであり返す言葉もなかった。更に曰く「お前が禅をやっているというので言うのだが、お前のやっていることは禅でも何でもない。禅の書物を読んで禅が分かったつもりでいるだけだ。」と。

しかし、言われながら頭の中を去来したことが二つあった。一つは、お前に言われなくともそれ位の事は自覚しているわい。ただ未だに修行が出来ていないだけのことよ。もう一つはまこと人の接し方は難しいということを痛感した。自分が良かれと思ってやったことが逆になったり、普通に話していて少し語気を強めたら怒鳴られたととられたり、人というのは分からない。この点について、お釈迦様も道元禅師もくどい程に言葉には気をつけなさいと言われております。また「愛語よく回天の力あり」ということも言われております。

しかし考えてみれば言葉と行為というのは、その人の「心」のありようの表現であります。そうしてみると、自分で何気なく言っている言葉、何気なく行っている行為等においても十分な注意が必要ということになってきます。人間が己の言動の総てに注意を払うということは凡人には不可能でありますが、可能な限り実行したい。自己弁護は止めて、直すべきところは素直に直していく。それが修行なのだから。

平成二年から禅の道に入り未だこの体たらく、見性とは程遠い所にいる私でありますが、今年になって少し得たところもありますので次回に書いてみたい。「禅」を志す人間にとって「禅とは何か」とは永遠のテーマではないでしょうか。言い換えれば「自分とは何なのか」でありますから。最後に浄土宗の法然上人のお言葉があります。上人は「念仏申さるるように生きよ」とおっしゃっています。ともかく他のことはよろしいから、ただ念仏申されるように生きよと。これは禅にもあてはまるすばらしい言葉だと思います。もっとも、道元禅師、一休禅師等も言葉は異なるが同趣旨のことをおっしゃっておられます。これからの人生をこのように生きていきたいと思っております。