居合を始めて早や二十三年、平成十年に二十年目でやっと居合の何たるかが分かった。今、精神的にすごく充実した日々を送っている。昔はいろいろな有名な寺に行った。行けば何かが得られるなと思っていたからだ。平成二年、禅の拠点となる青らん寺に落着き林誠道師にいろいろな事を教わった。 清らん寺に導いて下さったのは中田先生である。又土佐英信流(居合)との出合もそうである。中田先生には感謝している。つくづくと縁というものを感じる。紆余曲折、いろいろなことがあったが、かようになるべくしてなったような気がしてならない。

23年前司法試験をあきらめ、この道に入った。今でも鮮明に覚えている。「金も名誉も地位も女もいらない。剣の道を突き詰めてみよう」と決意したことを。但し親は大反対だった。貧乏の中、大学へ行かさせてくれた両親の事を思うと心が痛んだが、自分の人生なのだ、親の人生ではない、と振り切った。

振り返ってみると、道場と自宅と会社との往復で過してきたような二十三年間だった。唯一つ事を貫いて、夢中で過してきた年月であったが、今、遅ればせながらやっと芽が出た。人生というものは自分の求める方向になるようになっていくものだと思える。それには己の信念に基づいた求めの徹底さが必要ではあるが。会社選びも自分の時間がたっぷり取れる今の会社を選んだ。反面、当然ながら給料は安かった。割り切りが必要である。

居合が「動禅」、坐禅が「静禅」とすれば、動禅の方から得られたものが多いようだ。一途に稽古に打ち込んでいると、ふっと頭に浮かんでくるものがある。それが、私が前にトランスパーソナル「心理学」について少し書いたが、そこでいうところの個を超えた、自己を超えた向こうから発せられる「呼びかけ」である。我見で一杯だった頃にはかような事はなかった。我見を離れることによって、居合が、禅が、見え出してきた。

自己を超えた向こう側から発せられてくる「呼びかけ」にも応えられるようになってきた。禅では「我見をすてよ」とよく言われるけれども、やっとその真意を体得出来た。頭の中で分かったことは観念、あるいは概念世界のことであり、何の役にもたたない。思うに、永平寺にも、総持寺にも、真理や悟りはない。土佐直伝英信流の故郷である土佐にも居合の真理はない。あるのは唯我が心の中だということを体得した。

結論は居合道も禅も同じ。いかにしたら「自我」を「我見」を滅却しうるかの一点に掛かっている。自我の滅却の彼方に禅の真実があり、土佐直伝英信流の真理がある。「我見」との格闘は続くが、私の次の段階である「気」と「空」を体得すべく精進していきたい。願わくば我が生ある内に得たいと思うが。只管打坐。只管初発刀。

(追補)トランスパーソナル心理学。フロイト、ユングを超えた第三の心理学といわれている。創始者アブラハム⒵マズロー、そしてその理論家、ケン⒵ウィルバー。日本では千葉大学の諸富祥彦助教授がいる。又、アーノルド⒵ミンデルのプロセス指向心理学がある。 トランスパーソナル心理学も、プロセス指向心理学も、殆ど私には般若心経の「空」を語っているように思える。逆に言えば、般若心経からこの心理学は生まれたのかも知れない。興味ある人は御一読を。

「トランスパーソナル心理学入門」講談社現代新書、諸富祥彦著