愛知県犬山の城下で、古い造り酒屋に入った時のこと、奥の座敷に「聴雨」と書いた古い色紙が掛けるてあるのに目がとまりました。その字に引かれて上げてもらい、しばらく眺めていました。紙も渋色にくすんで、書き手がどういう人か、店の老夫人訊ねても、もう判らないようでした。

「雨を聴く」、伝統的な和歌の世界では、夜(や)雨(う)か時雨(しぐれ)のことが多いようですが、梅雨どきなど、昼の雨に降り込められて聴く雨の音もなかなか良いものだと思います。

中国宋代の禅院のことです。「鏡清、僧に問う。『門外は何の声ぞ』僧曰く『雨滴声』清曰く『衆生顛倒、己に迷ふて物を 方遂う』」

碧厳集の第四十六則にある公案です。中野東禅老師は「禅の常識」(講談社昭和六二年刊)の中でこの問答に触れられた時に「雨に降り込められて坐禅している時は心底落ちつけるものである」と書き添えていられます。しかし老師は、文の終わりで「雨だれに心底落着くのは難しい」と結ばれているのです。禅者は雨の音に何を聴くのでしょうか。大雄山最乗寺の夏期禅学会で、雨の日の本堂に坐ったことがありますが、数息観を追うのに精一杯でした。

ある年の十一月、京都高尾の神護寺の茶店で縁台に腰掛けて甘酒をすすっていると、さっと 俄雨が降ってきました。「しぐれてきよった。入りなはれ」急いで毛氈など片付けながら、茶店のおばさんが声をかけてくれました。初めて行き逢った京のしぐれでした。

それ迄、夕立や春雨などは言葉を聞くとすぐにイメージが涌くのに、時雨だけは体感的なイメージが涌かないでいました。原因はどうやら私が関東の、それも横浜に生まれ育ったことにあったようです。時雨は周囲を山に囲まれ、日本海沿岸にも近くて、初秋の気流が不安定な京都で特に顕著な気象現象であるらしいのです。「雨の景観への招待¦名雨のすすめ」(小林亨著 平成八年刊)は「北山しぐれ」という固有名詞をあげて「雨はなかなか名所化されないが、しぐれだけは格別らしい・・」と晩秋初冬の京のしぐれが持つ風景的イメージに触れていました。

「私は雨がすきですよ」日頃気っぷのいい活躍ぶりから、そんな言葉がとび出すとは到底思えない人からこの言葉を聞いて、意外な思いをしたことがあります。雨が降り出すと嬉しくなって庭へ飛び出してしまうのだそうです。茶室の建築を専門にしている大工の棟梁さんでした。

雨好きの人は年輩の方に多いようですが、イラストレーターの山本あや子さんが著した「雨の日の東京名所」(主婦と生活社刊)を書店の棚に見つけた時は嬉しくなって即座に買ってしまいました。東京名所百か所の雨の楽しみ方が、イラスト入りで紹介されていました。

最近はビルの生活が多くなり、雨を聴くことも稀な時代となりました。人々の趣向も変化して、一点のかげりもなく晴れ上がった明るさばかりが好まれるようですが、雨を聴く日本人の感性は残しておきたいと思います。かって雨の日に成田空港へ下りたったフランスの著名な文化人は、あいにくのお天気と気づかう出迎えの日本人に「広重は雨が好きでしたね」と微笑んだそうです。