その歴史は御開山(1394年)了庵慧明禅師とその遺訓を文書化した五世春屋宗能禅師の禁伐令(1451年)により、後に「欅、樫、松の直立無類の逸品五十万本」 といわれる多種複副層の天然林の山となる。およそ200年に渡って自然の遷移にまかせ、痩せ地の植生 が見違えるような山に、変わっていったことがわかる。

伐木禁制の状(禁伐令1451年)

山中の草木は総て猥りに切るべからざる事

本木を載るに於いては頚を載るべき事

枝を載るに於いては手足を載るべき事

葉を斬るに於いては指を載るべき事

草を刈るに於いて髭髪を載るべき事(以上が開祖)

古人の道(い)ふこと豈(あに)是ならざらんや

山中の松竹を切るなかれ

枝枝葉葉は祖翁の皮肉なり   (以上三行五世)

この大雄山の禁伐令を日本の林に位置づけてみると、 その特色が異彩を放つ。まず同等の厳しさをもつもので比較した場合、かなり早い時期に位置づけられるものだったことがわかる。社寺においては、古代から自己の林地については 他者による用材の盗伐を禁じ、自身の伐採利用についても一定の規律をもっていたと考えられるが、このような厳しいものではなかった。社寺がその締め直しに かかるのは、江戸時代に入ってからというのがほとんどである。戦国大名や、幕府による禁伐令もずっと後のことである。

また、「枝を切ったら手足を切る」という表現は、後の禁伐令に共通する表現で、おそらくその始めである点が注目される。さらに、その内容や、育成方向を考えた場合、自己自家用の伐採も厳しく禁じていること、それが自然の法理にまかせての良好な天然林の育成であったことこれは一般の目的的な管理、施業と全く対照的で、独特のもので有ります。

植林時代(1592年~1924年)、 最初の植林といわれる鹿島神宮(865年)吉野杉、川上郷(1501年~1503年)についで古い、吉野杉、黒滝郷(1596年~1619年)よりヤヤ早い。他の有名植林地はほとんど、寛永年間(1624年~1643年)以降のものである。関東では、江戸期に入ってから展開するので大雄山の植林は隗となり日光の杉並木、東海道の松、榎、杉並木、飯能(西川林業他)、多摩の植林などよりずっと早い。

当山の前期(1592年~1925年)、 僧と寺による植林、玉山智存和尚が初めて植樹。以来末寺からの主な樹種はマツ(13,932本)スギ(13,200本)それにモミ、ヒノキが若干ゆっくりとだが、針広混交の本命樹林の姿が、うっそうとした針葉樹の山に変わってゆく。

衰退、逸脱期(1925年~現在)、 この時期には、さまざまな事情により、社会的、自然的両面から、大雄山森林に障害がもたらされ、衰退の道をたどることになる。

一、1926年、1928年寺院の焼失、再建のための伐採

二、1930年に1870年の土地上納令で官林(後、御料林の中の宮内省保管林)に編入されていた境内林の長期に及ぶ払い下げ願いが、やっと認められたが、その工作に多大の費用を要す。

三、日華事変(1979年)の頃から、軍需に応えざるをえなくなった。特に太平洋戦争中は岡本小学校に駐屯した部隊の手で毎日のように伐採された。また立花学園の焼失に際しては、建材提供のために伐採した。

四、昭和30年代に入ると、松に枯損が見られるようになり、その都度伐採して、今日では消滅する。(マツノザイセンチュウによる被害。)モミも前後して減り生存率10%を割るようになる。(老齢化の要因の外両者とも大気汚染に耐性がなく、大気汚染の影響も考える必要がある)

五、1966年東宮御所の建設に際して最後の松5本を提供する。

六、スギ木立にも立ち枯れ、衰弱が目立つようになる。(これはスギの寿命ではなく、植林という永年の作為、目的木以外を排除する方法そのものの持つ問題性の表れという面と、バス路線の開設(1930年)、参道の拡幅舗装(1960年)などによる根系の傷み、伐採や道路巾など吹き込み増、陽疾による被害、明星林道の接続などによるトラック、マイカー族の増大と排気ガス被害などの要因を考えねばならない。

「大雄山杉林のような卓越したボリュームを誇る杉林は、今の日本にはほとんどない」(山田純)

最後に、このすばらしい貴重な遺産である杉林を官民あげて守ってゆかなければならない。                           (完)

参考文献
(日本の森)    田中茂
(森林調査)    宮沢敏雄
(南足柄の森林)  山田純
(最乗寺の歴史)