先月半ば山形に旅した時のことである。鶴岡に一泊した後、酒田を見物しようと鶴岡駅に向かった。前夜からの雪が厚く積もり凍てついた朝である。列車(といっても二両連結のローカル列車であるが)に乗り込む頃には吹雪になっていた。さすがに乗客はまばらで、私が乗った車両には妻と私の二人だけだった。そこへ発射間際になってリュックを背負った若い外人の男二人が乗って来て、通路の向かい側の席にどっかと腰を下ろした。こんな所で外人に会うのは珍しい。学生で日本を歩き回っているのだろうか、二人とも長靴で防寒具をきっちり着込んでいる。

間もなく列車は走り始めた。外は窓に吹き付ける雪で景色も何も見えない。所在無さに私は彼等にどこから来たのか英語で聞いてみた。アメリカ人で、カリフォルニア出身とのこと、GI刈をした若い方の男は日本語もかなり流暢でよく喋る。話すうちにお互いに言葉は英語と日本語のちゃんぽんになってきた。彼は今鶴岡に住み、モルモン教の宣教師をしていてこれから酒田へ行くところだとのこと。そういえば学生の顔つきではない。

「モルモン教のことを知っていますか?」と彼はリュックから聖書を取り出して説明をし始めた。「神の声を預言者が聞き、それを彼等が我々一般民衆に伝えるのです・・」どうやら我々二人を相手に説法をするつもりの様である。リハーサルも兼ねているのであろうか。私はこのまま彼の話に巻き込まれると面倒と思い、ひとまず話を切るつもりで「私は仏教徒です」と言った。「ああ、そうですか。仏教では先祖を崇拝するそうですね」と彼は手を合わせる仕草をした。私は思わず「先祖崇拝はすることはしますが、それは仏教の本質ではありません」と答えた。何か仏教を葬式仏教の様にこの外人に思われては癪だとふと思ったからである。すると彼はすかさず「では仏教の本質とは何ですか?」と聞いてきた。こんな所でいきなり仏教の本質はと問われるとしんどいなと思ったが、言い出した手前今更逃げる訳にも行かない。私はこう答えた。「仏教では人生を苦しみと捉えます。その苦しみの中でどうすれば心安らかに生きていけるかを考え実行するのが仏教です」と。

「それでは仏教では神は無いのですか?」と彼。私は答える「今から二千五百年前ブッダは同じ様な質問を受けました。彼はこう答えました。『私はその質問には答えたくない。何故なら神は存在するかも知れないし、しないかも知れない。この問題を百年議論しても結論は出ないからだ。それよりどうすれば心安らかに生きて行けるかという質問なら私は喜んで答えよう』と」

すると彼は突っ込んで聞いてくる。「なるほど、ではどうすればよいと彼は言ったのですか?」「一つには自分の欲望、情念を抑えることです」と私。「それは欲望をコントロールするという意味ですか?」と彼。「そうです。人間は欲望を無くすことは出来ませんが、コントロールすることは出来る筈です。もう一つは正しく生きること、言い換えると道徳的に悪いことはしないということです」と私。ここまで来ると向こうの二人は顔を見合わせてなんとなく納得顔である。

私は続けた。「仏教では神の存在はあまり問題にしません。しかし、神に近い表現はあります。それは如是と言います。例えば何故今こうやってあなた方と出逢って話をしているのか説明しようとしても説明出来ないではありませんか。こういう不思議なことを如是と言います」と言うと、今までじっと我々の会話を聞いていたもう一人のやや年長の男は手帳を取り出してメモし始めた。私は彼の差し出したメモ用紙に「如是」と漢字とローマ字で書いてあげた。彼はそっと若い方に目くばせした、恰もこの男(私)に説法しても無駄だとでもいう様に。どうやら彼は先輩格で若い方の指南役のようである。

そろそろ我々も問答に疲れてきた。四人はなんとなく黙り込んでしまった。ふと窓の外を見ると、列車はもう最上川の鉄橋にさしかかっていた。白一色の雪景色に一条の大河の流れ。(後から考えるとこのあたりであろうか。丁度一週間後にあった脱線事故は。)間もなく列車は酒田駅に着き、我々は互いにこやかに握手を交わして別れた。ホームから出てゆく彼等二人の後姿を見ながら私は思った。お釈迦様のお蔭で今日は彼等の説法をかわすことが出来たけれど、どうだろう、あれで彼等に少しは仏教のことが分かって貰えただろうか。それはともかくあの熱心さには感心した。仏教徒も彼らに負けずにもっと発信してもよいのではないかと。

(平成十八年一月)