中国古典の通義録に「草根木皮これ小薬、鍼灸これ中薬、飲食、衣服これ大薬、身を修め心を治めるはこれ薬源なり」とあります。

最近の医療は急速に進歩し、患者は専門という威信を信頼し、木を見て森を見ずの譬えの如く全体を見ぬうらみがあります。

東洋医学の疾病感は、病を体全体の有機的な繋がりの一部としてとらえている。局所の疾病を、常に全体のバランスの変調が原因と考え治療している。従って伝来的な要素が多く、充分な技術を身につけることが難しい。

最近の統計でも伺えるが、気の病、即ち精神作用による疾患が多くなってきた。肉体の変化をとらえ治療する西洋医学では、気の病を治療することは難しい。「病は気から」と申しますが、病める人の心と相通じる治療医になるためにも、現在までの過程の中で画かれている禅の心は正に薬源と考えます。

自らを振返ってみますと、西洋医学の恩恵に預かってきた。これのみでは疾病は直らないことを体験し、哲学的体験から小薬あるを知り、自分なりにこの限界を悟り中薬の効を求めることに意を注ぎました。小薬、中薬を併用するは専門家の致すとおろではないと指摘される人あるも、先人の中に病める人を考えれば行きつくところは決まると悟されていた。

「飲食、衣服これ大薬」、この句こそ今に生きる人々が大いに考える必要がある。衣食足りて礼節を知るだろうか、過ぎたるは及ばざるが如き現代社会になってきた。医療の乱脈ぶりが目に余る。大衆は、その不信のよって来るところを医療の周辺に求め、自然食、健康食品、ヨーガ、エアロビックス等に、健康を自ら管理する方向に走る。しかし、善悪の物差しを知らず。今日ほど大薬の乱れているときはない。

叢林(禅の修行道場)の生活の中に光明が求められるような気がしてならない。

(昭和五九年 記)