御垂示 母への思い 余語翠巌

三河北設の山々は、晩夏の夕陽を浴びて静かにその影を正している。山沿いの道は、法師蝉の声に包まれ、彼は母の背で、その声にひたり切っている。母は岡崎への道を急ぐ。大正六年の晩夏初秋の交である。

桑名藩士の女(むすめ)としての衿持が、いつもかりそめの妥協を許さず、周囲からはそれが頑固さと見られていたことであろう。北設の寺に縁付いて、住職との死別に遭い、いろいろの申出を、その不条理の故に、凡てを辞し一物も無く五才の彼を背にして、今蝉時雨の夕陽道を急いでいる。おそらくは、岡崎在の縁者の家に黄昏までに到着しそうもない道程を、足の重さと、行く先への配慮と更には背の重さも共に味わいながらの、とぼとぼとした歩みである。今まで歩み来たった四十年来の日月、更にはこれから先の幾年かの星霜の中での歩みが、頑なまでに妥協を許さぬその姿が、住居を三十数回移す程の不安定な、不幸な生涯を生み出したことも、さだかではないが、その思いにあったことと思われる。彼は法師蝉が鳴くと、必ずその時の母のすがたと、その時の背の感触を思うのである。

北設の山を出てから数年、大正十二年の早春の日射しを浴びて彼女は病床にあって、病を養う日々である。生計を立てるために、紡績の女工として四日市の工場に入っての労働は、ひよわな彼女をいためつけたことである。その間同僚朋輩との間のいざこざなどの煩わしさを避けて、仮寓からの工場通い、冬の朝、六時の出勤は早い。彼も又共に家を出て途中の公園で母を送り、ブランコにてやや時を過ごす、校門の開く時間迄。種々の苦しさも煩わしさも凡て望みを彼に托した気持ちで過して来た今日、病に臥して、凡て思うにまかせぬ世をかこつのである。「決して坊さんには致しません」と云い切って寺を出たのではあったが、友人のすすめと、本人の気持ちから、再び寺の門をくぐって、寺の徒弟としての彼の生活が始まった昨今、彼女は病床にあることも忘れ、その不甲斐なさをなげくのである。
時移りて更に二十有余年、彼女は乏しい終戦後の食糧事情から、工面しては何か栄養のあるものを孫に与えようと苦労している。晩秋の日射しの中で日向ぼこをして、玉子雑炊をさじで孫に食べさせながら、七十有余年の生涯を偲ぶ日々である。

望みを托した彼も、恩師の薫陶を得て、学を終え、一ヶ寺の住職としての地位にあり、苛烈な大戦も終わって、乏しくとも平和な日々が訪れて、秋の日射しを豊かに娯しむことが出来、その寺に身を寄せている彼女の晩年の安らかさは、今までの生涯の最良の日々である。その彼女の一抹の不安は、世の荒波と云われる中を通して来て、世の中はそれほど信頼出来るものではなく、ともかくも一度は疑ってかかるべく、悪く云えば「人を見たら盗人と思え」の諺のように生きるべきことを、身にしみて感得してきたにもかかわらず、彼女から見ると、世に出で立った彼は、まるで逆の方向にいつも動いている。まるっきり疑ってかからない。そのあぶなっかしさがいつも不安なのであるが、云っても聞き入れそうにもないので、諦めてはいるものの何とも心もとない。だまされてもだまされてもあまり意に介さない彼は父方の祖父の百姓一揆を起こした血が流れていることとして、ほっておくより仕方がないことであろう。

眼を鈴鹿連山の紫に移せば秋の日射しはいよいよ静かである。
(昭和四十六年三月)(余語翠巌著 「去来のまま」より)