先日、書棚を整理していて、昭和六一(一九八六)年七月号『大法輪』(坐禅の誘い)欄で、余語翠巌老師の「身心を投げ入れる」という寄稿文が目にとまったので、次に御紹介したいと思います。

『坐禅は人間完成への道ではない。人間完成などあることではない。人間の妄想である。未完のまま身心を投げ入れることである。

真宗では念仏を申して阿弥陀さまに投げ入れる。禅では坐の中に身心を投げ入れる。共に宗教であり仏教の名で呼ばれる。自力の宗教などあり得ないことに気付かねばならぬ。されど効能のある坐もあること故、それはそれであるが、第一義において宗教的安心である』。

なるほど、自分は昭和三五(一九六〇)年から今日まで四五年間坐禅を続けているが、頭をガツンと殴られた感じで、改めて己の未熟さを知った次第です。感謝、感謝。