仏教は言うまでもなくゴータマ・ブッダ(釈尊)によって始まった宗教であるが、実は釈尊が何を語られたのか、本当のところはよく分かっていない。なにしろ二千五百年前、文字の殆ど無い時代のことである。釈尊の滅後、生前のお言葉が口づてに伝えられ、やがて韻文経典となり、これ等古代インドの文献が中国をはじめ世界各地に広がって、今日の多種多様な仏教文化がある。その万余の経典に如是我聞と釈尊の言葉を伝えているが、果たして釈尊はどんな風に語りかけられたのであろうか。釈尊御自身が自分の教えを仏教というなどと言われた訳ではないことは勿論である。正に群盲象を撫でるの類で推し測るしかない。

察するに釈尊の説法は極く短いものだったのではないかと私は思う。しかし、その中に最上の真理が存在していたに違いあるまい。「たとえお釈迦様の話が全部嘘だったとしてもそこに真実があると自分が納得すれば、それを信じればよいのだ」と余語老師はおっしゃった。確かにそうである。さはさりながらである。やはり、本当のところ釈尊は何を語られたのか知りたいものである。そんな欲求に答えてくれる本の一つに最近めぐり会った。並川孝儀著「ゴータマ・ブッダ考」(大蔵出版)である。

この本で展開される著者の研究手法は、先ず古代インドの韻文経典を精査し、年代的に最古層と古層に分類し、最古層から古層へと展開される思想の時代的流れを検出する。そして、その流れを逆に遡って、最古層より更に古い時代に位置する釈尊の思想の根源に迫ろうという極めて客観的で実証的なものである。多くの仏教書が時代的考証もろくにしないで釈尊の説とみなすのに比べて対照的である。

この本から結論づけられる釈尊の思想のエキスとでも言えるものを、自分なりに解釈してまとめてみると次の様である。

救済性について
著者によれば、釈尊のお言葉に人を救うという意味合いを探ると、時代を遡れば遡る程、否定的表現が増えるという。確かに釈尊御自身は最上の真理を知って煩悩の激流を「渡り」安心の境地に到達された。しかし、諸々の韻文の中に「渡った」という言葉は出てくるが、「渡す」という言葉は出て来ないという。次の偈が象徴的である。

「私はこの世のいかなる疑惑者をも解脱させようと努めないでしょう。あなたが最上の真理を知るならば、そのことによって煩悩の激流を渡ることが出来るであろう」。

結局、自灯明、法灯明ということであろうか。安心を得たければ、自分で最上の真理が何かを求めなさいということであろう。では最上の真理とは一体何であろうか。これも詰まるところ単純なことで、「諸々の欲望を抑えること、清らかな行いを続けること(涅槃のもともとの意)」に尽きるようである。

釈尊のお言葉に救済を求める思想は、釈尊の滅後、弟子達によって釈尊を教祖として崇め始めてから出て来たらしい。その流れに伴って、ブッダ(聖者、覚りを得た人)という普通名詞もゴータマ・ブッダ(釈尊)を指す固有名詞化されたと解される。そこで私は思う。敢えて救済性を言うならば、自灯明、法灯明と教えられたこと自体が釈尊の偉大なる救済性と解すべきではないだろうかと。

輪廻について
輪廻という思想はもともとバラモン教の基本であり、古代から現代に至るまでインドの多くの人々のものの考え方の基本になっている。これに対立して新たな思想を世に問いかけたのが釈尊だったのであり、その意味で釈尊の思想は当時の新興宗教であったのだが、その仏教も、年代を経るに従い輪廻の思想が組み込まれ、あたかも輪廻思想が仏教独自の思想と思われる様に展開して行く。

しかし、著者の研究によると、時代を遡れば遡る程、輪廻に対する表現は消極的になり、ものの考え方や見方があくまで現世に力点を置くという態度を示していることが読み取れるという。即ち、当時のインドで支配的だった輪廻という思想に対して、釈尊は無我という新しい世界観を主張された。そのことを最も端的に表現していると思われる偈に次の様なものがある。

「煩悩の矢を抜き取った比丘は、この世やあの世といった生存の繰り返しを捨てる。あたかも蛇が年を重ねると今までの皮を脱ぎ捨てるようなものである」。

ここで興味深いのは、著者が結論的に救済性については「否定的」としているのに対し、輪廻については「消極的」と表現していることである。おそらく釈尊は輪廻を敢えて否定することなく、さりとて肯定もせずに、争わない態度をとられたのではないか。釈尊の問題提起はあくまで現世にあり、この世間を苦と観じ、苦からいかにして解脱出来るかという差し迫った現実の問題なのに対して、輪廻の議論は所詮結論の出ない問題として、敢えて踏み込まれなかったのではないか。こうして当時の支配的宗教であったバラモン教との争いを避けられた。ここにも釈尊の奥深い知恵が感じ取れるように思う。

以上は私の読後感であるが、興味のある方はこの本を直接紐解かれる様お薦めしたい。

(平成十八年十月)