御垂示 放てば手にみてり「正法眼蔵辯道話私談より」余語翠巖

辯道ということは、何かを、何かにつぎ足して行くことではない。一切を放下する風光に住することである。自らの意志の力をも放下することである。本証のもよおす所、とあり、仏の方よりおこなわれてとあるように、尚また『坐禅儀』にあるように、心意識の運転をやめ念想観の測量をやめることである。
かくてその風光は、真宗の安心と何か通ずるものを漂わせている。真宗と曹洞宗が日本仏教の両極に位して、外見上は共通点がないようであるが、この両極が一致しているように思われる。『教行信証』や『歎異抄』が長らく衆目にふれない配慮があったということであるが、一般常識からいって全く別の視点にあったためであるという。南無阿弥陀仏というのは、こちら側、人間の側から阿弥陀様に帰命し奉るのではなくて、吾々が阿弥陀に帰命せられるという。本願にもよおされ、仏のかたより行われるすがたである。

宗教は脱人間の世界である。善悪正邪は人間世界の出来事である。何の基準によってか善悪正邪を定むるか、その時代、その場所の団体的規制である。凡ての人は、その時代、その場所の団体的規制に従わねばならぬが、それを越える開かれた場所が宗教の世界である。こういう抽象的表現をしながら、自らのうちなる自らの生き方を考えて行く。最も抽象的なものが、最も具象的になり得る場所は、夫々の個々の中に於てである。
昭和四十八年¦四十九年(余語翠巌著 「去来のまま」より)