道元禅師は、時の権勢に近づかないことを生涯の信条とされ、弟子にもそれを守るよう厳しく求められたと伝えられている。日本の中世までの歴史を振り返ると、政治の権力者は宗教の力を利用しようとし、それに乗って政治権力に結びついた宗教教団は、途端にその純粋さを失い、堕落するという繰返しであった。宗教というものは個人にとっては心の拠り所となる大切なものであること勿論であるが、教団の政治活動となるとこれはまた別物である。

政治への宗教教団の介入を排し、政教分離を日本の歴史上初めて成し遂げたのは、織田信長である。それはそれこそ血みどろな戦いであった。先ず彼は屈強な僧兵に守られた比叡山延暦寺の焼き討ちを敢行した。しかし、彼は仏教が憎くてやった訳ではない。(彼は後に安土城内に摠見寺というお寺を建てている。)彼が憎んだのは、その昔、権勢の頂点にあった白河法皇をして、「世の中に思うままにならぬものはないが、ただ加茂川の水と双六の采と比叡山の僧衆は手に負えぬ」と嘆かしめたあの延暦寺の政治への介入であった。それに京都に攻め上るには比叡山は戦略上どうしても邪魔であった。

彼はまた、浄土真宗の石山本願寺とも十数年に亘って戦った。難攻不落の石山(後の大阪城)と一向信仰の本願寺門徒衆の抵抗にさすがの信長も手を焼き、遂には朝廷を介して和睦しているが、ともかくも法主顕如を石山から追出した。

かくして信長は念願の政教分離を成し遂げたのであるが、これは丁度西ヨーロッパがローマ法王を頂点とするカトリックの圧制に呻吟していた頃の話で、政教分離においては西ヨーロッパよりおよそ百年も先んじていたのである。正に世界史における革命児である。もっとも彼は政教分離を自らの天下統一のためにやったのであって、民主主義のためにやった訳ではさらさらない。

しかし、動機はともかく、いまだに宗教のくびきから離れられない中近東の国々が近代化の課程で苦しんでいる現状を見ると、日本の我々は、政教分離をいち早く確立させ、中世から近世へと一気に脱皮させた信長に、結果として負うところ大なのではなかろうか。神社であれ仏閣であれ、こだわりなくお参りに行く日本人の宗教に対するおおらかさは欧米でも見られないものと言われているが、一つにはこんな歴史的背景があるのではないかと思われる。

ひるがえって今、政権与党の自民党は足腰衰え、政教一致の理想を内に秘めた一小党におんぶに抱っこの有様である。これを信長が見たらどうのたまうであろうか。