世界には各国に色々の絵があるが、ごく大ざっぱにわけて、東洋の画と西洋の画に分けて考えてみると、西洋の画は画面の隅々まで描き込んでいる。 他方東洋的な画は画面を描きつくさず、画面内に余白を残している。勿論すべての画がこうだと言うわけではない。欧米の影響をあまり受けていない時代の水墨画とか日本画などに多くみられる。余白を生かした画は現代にもあるのは勿論のことである。また余白は何も描かないのではなく、ごく薄い色、或いは墨を一面に塗っている。

小倉遊亀という著名な日本画家は、花を描いてもその周り(背景)を二百回も描いたということをテレビの話で聞いたことがある。従ってこのような絵は余白を描くということは、非常に重要な意味を持っている。余白は絵のいのちであると言っても言い過ぎではないと思う。余白にものをいわせるのがねらいである。

三年ほど前になると思うが丸の内の出光美術館で桃山時代の画家、長谷川等伯(1539~1610)展があった。この展覧会で特に印象深かったのは、松林図屏風(155.1×345.1cm.)の左右の二隻である。描かれたものを文章で説明するのは無理なことではあるが、画面には松の木が十本ほど濃淡の墨で描かれていて、松の木よりも描かれていない余白の部分のほうが広い。この絵は会場の一番奥の部屋にあり、その前に木製の長椅子が置かれており、大勢の人が腰を下ろして長時間見ていた。このようになっている美術館はそれまで見たことがなかった。美術館もなかなかのものである。私も一時間ほどだったと思うが椅子に腰をおろしていた。

松の木が描かれていない余白といっても薄い墨で空間を描いている様子が判る。この余白の部分こそがこの絵のいのちのように思われる。絵の深さ、語りかけるものは、言葉では表現できないものだから。

美術評論家の中には「抒情性を示す」或いは「精神的不思議な世界を形成している」と言う人もおり、その通りでもあると思う。が、この絵の素晴しいのはこの余白の持っているものが、無の世界、空の世界だと思われる。無とか空と言っても伝わりにくいだろうが、例えば「古池や蛙とびこむ水の音」水の音といっても、飛び込んだ後の「沈黙の響き」である。或いは、余語老師に教えていただいた禅語「鳥鳴山更幽」を思い出させる。「鳥の一声」が山の静寂さをこわしているようであるが、これによって山の静かさ、深さを更に増している。ここで思い出すのは大雄山の杉の林である。〈松林図〉は松の木でも墨の濃淡があり、広い余白部分は淡い墨で描かれているが、ここにも更に、濃淡の変化がある。〈松林図〉の濃い墨で描かれている松は「水の音」や「鳥の一声」に相当し、余白の部分は「音」や「一声」の後に続く静寂に相当すると考えると興味深い。

等伯は中国の禅僧画牧谿の影響を強くうけているといわれるし、その画いたものの中には、牧谿を模倣した絵さえもあると指摘されている。してみると等伯の描くものには禅の思想が潜んでいると思われる。

出光美術館でみたように、大勢の人が長時間にわたって松林図を観ている姿は禅に触れているものと思われる。あの人達はもしかして座禅をしたことがない人が多いのかも知れない。座禅とは縁がないと考えている人でも禅の世界に通じていると思われる。してみると禅は特別なものではなく身近なものであり、東洋人に共通のものである。 問題はその深さにどこまで入れるかである。