五祖弘忍から六祖慧能に法が伝わる過程が劇的なので書きます。

弘忍は門下生達に言います。「誰かに自分の禅法を継がせたいと思う。誰でもよい、己の悟った心境を偈で示せ。禅の本質をついた者に印可しよう。」と。当時   弘忍の弟子達は六,七〇〇人いたといいます。首座に神秀がいました。彼は内外の学にも通じ師の代理をも務め、徳望もありました。彼は自分の悟境を偈にして廊下に貼ります。

身是菩提樹 (身は是れ菩提樹)

心如明鏡台 (心は明鏡台の如し)

時時勤払拭 (時時勤めて払拭せよ)

莫使惹塵埃 (塵埃をして惹からしむること莫れ)

意味するところは、身体は悟りを宿す樹のようなもの。心はもと清浄で美しい鏡の如きもの。それ故に常に汚れぬように払ったり拭いたりし、煩悩の塵や埃をつけてはいけない。事実、神秀はかような努力の人だったといいます。この偈を見た門下生達は彼を絶賛しました。しかし、これを聞いた慧能は「神秀の偈は真実をついているが、まだ充分とは言えない。」と批評しましたが、誰にも相手にされない。そこで慧能は、人に頼んで心境を書いてもらい、神秀の偈の横に貼りました。

菩提本無樹 (菩提本より樹無し)

明鏡亦非台 (明鏡も亦台に非ず)

本来無一物 (本来無一物)

何処惹塵埃 (何れの処にか塵埃を惹かん)

意味するところは、菩提という樹も、明鏡という心もない。菩提もなければ煩悩もない。本来無一物だ。塵埃のよりつくところもないから払拭の必要もないではないか。

これを見た門下生達は仰天しました。禅の絶対性がうたいあげられていたからです。六祖慧能(七一三年没)という人は中国広東省の貧家の出です。毎日薪を売って生計を立て老母を養っていました。ある日、街で僧が読経する「応無所住而生其心」の一句が心にしみとおったといいます。僧からそれが金剛経であると知らされ、又、弘忍禅師(六七五年没)がこの経を講じていることを教えられました。貧乏で学問する暇など無かった慧能は、老母を人に頼み、弘忍のもとに行き、体に重い石を背負って足踏み式の米つき台で臼の中の米をつきながら修行を重ねました。無学文盲の人間に禅心など分かるはずもないと誰からも相手にされなかったけれども、この偈によって弘忍の禅は慧能に伝わったのです。

慧能禅が南方で栄えたので南宋禅、この南宋禅を学んだのが栄西禅師。栄西禅師こそが日本で初めて禅の寺院(建仁寺)を建立し、禅を定着させた人であり、開祖と言えます。神秀の方は北宋禅。彼の偈が示すように、北宋禅は修行の積み上げを段階的に踏んでいき悟りを得るので漸悟といいます。これは実践面から煩悩と悟りを対立的な存在として仮定し、迷いを少しづつ払拭し本来の悟りに到達するという考え方、南宋禅は修行の積み上げに更に一つの飛躍の必要性があることを示しています。これを頓悟といいます。この考え方は、煩悩と悟りとを対立させずに直結せよ、修行が実った時が本来の悟りそのものだとする。

我々の日常生活においては、総てが分別、対立する相対世界です。身と心、迷いと悟り、正と邪、自分と他人等々、禅の世界はこの分別、相対的認識世界から脱して、「本来無一物、本来何も無い」と絶対否定したところにあります。我々は長らく分別、相対的物の考え方に馴染み過ぎ、この絶対的認識の世界に中々入り込めません。相対的認識の立場から絶対的認識の世界を考えるので諸々のことが矛盾だらけになるのです。禅の「公案」がこれを端的に表わしています。「公案」とは誠によく出来ていて、分別世界の知識では解けないように出来ております。

神秀と慧能、この二人の好対照。考えさせられます。禅を頭で考えているうちは永久に分からないと思う。我々は坐禅によって、この分別知と、相対的認識の世界とに訣別しなければいけません。「山門をくぐれば更に門あり、思考する者よ入るなかれ。」参禅の厳しさがある。