我々日本人は釈尊の教えを中国から漢字で学んでいる。このことが我々の理解を余計に難しくしていないだろうか。例えば、般若心経に何度も出てくる空とか無という概念は非常に難解である。然らば古代インドの仏典に遡るという道も無論あるが、それはそれとして、現代のインドの仏教徒は釈尊の教えをどう理解しているのだろうか。そんな興味もあって、ふと手にしたのがアンベードカル著「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)である。そうは言っても訳を読むのだから結局は漢字での理解ということになるが、たまたまインターネットで英文の原著が入手出来たので、要点はチェックしてみた。ちなみに邦訳は正確で非常によくこなれていると思う。以下はその読後感の一端である。

まず著者のアンベードカル(一八九一¦一九五六)という人物、寡聞にして私は実は今回初めて知ったのであるが、インドの政治家である。不可触民の生まれでありながら苦学して弁護士となり、インド独立直後ネルーに招かれて法務大臣となり憲法起草委員会の委員長を務めている。その生涯をかけてカーストの地位向上に尽力し、ガンジーとも時に対立するが、晩年ヒンドウー教でのカーストの開放に絶望し仏教に改宗、此の時五十万人のカーストがこれに従ったという偉大な宗教的指導者でもあった。本書は、常日頃から釈尊の生涯と教えを研究し、晩年の超多忙の中で寝る暇も惜しんで書き上げた正に彼の畢生の書である。

ダンマとは人が生きて行く上での原理とでもいうべきであろうか、「法」に相当する。アンベードカルによると、釈尊のダンマとはニルヴァーナ(涅槃)に生きることである。涅槃とは一般に考えられている臨終の様な状態ではない。涅槃とはもともと「火が消える」とか「消す」という意味からそう受け取られがちだが、釈尊のダンマはそうではなく、生きている人間にもともと燃えている情念、この情念の「焔に油を注ぐな」ということ、「情念を統御する」ということ、即ち情念からの自由を指している。

この「情念からの自由」こそが般若心経でいう空であり、無ではないかと私は思う。そう解釈すると余語老師がよく言われた「無の眼耳鼻舌身意あり」の無の意味と通じる所がある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の様に全く情念を殺すのではなく、統御された情念で、つまり情念から自由になって生きるという意味に解すると般若心経はよく分かる。少なくとも私はそう解釈したい。

アンベードカルはダンマの本質、即ち釈尊の教えの本質は、道徳¦それも民族や仲間内だけに通用する偏狭な道徳ではなく普く人類に通用する普遍的な道徳¦にあると主張する。彼はこう述べている。「ダンマには祈祷も巡礼も、儀式、祭礼、供犠もない。道徳がダンマの本質であり、それなくしてダンマはあり得ない。ダンマの道徳は人間の人間への愛という直線的不可欠さから生まれる。それは神の承認を必要としない。人間が道徳的であらねばならぬということは神を喜ばすためではない。人が人を愛するということは自らのためである。」と。釈尊のダンマは神のための宗教ではない、自分のためのものだと言っている。道徳という人と人との間のルールに本質を見出すのは、社会的存在としての人間に重きを置く仏教観で、そこにインド的なものを感じる。

常々余語老師から「人間のはからいをはずさないと仏法のことは分からない・・・宗教の風光は道徳ではない」云々と、超人間的というか、自然とのかかわりの中で人間を捉える禅的仏教観に親しんできた者にとっては最初違和感を覚えたが、読み返すうちに切り口は違っても元のところは結局同じではないかと思う様になった。前号に紹介した「悪と往生」に続きこれも一読をお勧めしたい本である。