十二月二十一日の翠巖忌に、今年もお山の墓前で法要が営まれました。早や五年目のご命日。毎年必ず快晴だった忌日と違い朝から雨、傘をさしての墓参となりました。

老杉に沁みゆく時雨翠巖忌

参会者十六名は、墓参後「恵山」でお昼のお蕎麦を頂きながら、ひとりひとりがご老師様を偲ぶ会となりました。恵山の床の間には、懐かしい字で「蔵輝」のお軸が懸けてありました。この軸を観る度に余語老師のご人徳が偲ばれます。そして、高浜虚子の句を想起します。

龍の玉深く蔵すといふことを    虚子

龍の玉とは冬の季語で龍の髭の実のこと。初夏の頃淡紫色の小花を咲かせ、花のあと球状の実をつけ、冬とともに熟して碧い「龍の玉」となります。龍の髭に深々と秘されているので、この植物に実のあることなど忘れて了っている頃に、思いもかけず美しい濃碧色の玉に出会うのです。

さて、「蔵輝」とはどんな意味なのか。何故ご老師が好んで染筆をされたのでしょうか。一般には「能ある鷹は爪を隠す」と言われる格言にあたるのでしょう。人間でも何か才能をもっているような人は、ふだんは非常に謙虚で、いざというときに初めて真価を発揮するものだとの意味でしょう。ある日、ご老師よりお聞きした思い出話では、秘すれば花、ひかるものは秘してこそ美しいという詩語だったと記憶しております。龍の玉も龍の髭の中に深々と実を沈めており、ある晴れた日に龍の髭を掻き分けると、冬碧空をキラリと映した龍の玉が顕れるのです。龍の玉を写実した虚子のこの句には、写生を超えて人の生き方「蔵輝」の含蓄が感じられます。

さて、ご老師を偲ぶ「なにか一言」、私の番になりました。

胸奥にご老師ひとり龍の玉    和風 清月