この句は何年か前に確か臘発摂心行茶供養会で最乗寺に行った時に老師に会う為に待たされた部屋に掲げられていた一句であったと思う。その時は「岫(しゅう)」が読めなかった。辞書は調べるものである。これは陶淵明の田園詩「帰去来辞」にあった。白隠禅師は自著「槐安国語」に対句の「鳥倦飛而知帰」と共に引用している。

「岫」は山の洞穴や巖の穴のことである。この穴から湧出る雲が「「岫雲」である。禅者はこれを「任運無作の妙用」と呼んでいる。「任運」は少しも私心を加えることなく、自然(じねん)のままに動くことであり、「無作」は人的な計らいがないことをいう。

「自己を忘れる」ということは正法眼蔵の現成公案で述べられている。即ち「仏道をならふというは自己をならふなり。自己をならふというは自己を忘るることなり。自己を忘れるというは万法に証せらるるなり」と。

「雲無心以出岫」(雲無心にして以って岫を出ず)の句は道元禅師のこのフレーズに帰着すると思う。しかしこのフレーズ分かったようで難しい。頭で考えるのではなく、全身で感得すべきが禅の本質。坐禅を積んでこのフレーズを体得したいと思う。

「鳥倦飛而知帰」(鳥飛ぶに倦んで帰ることを知る)。」「倦む」という契機によって我々は自分を動かしている大きな力が背後に無意識のうちに存在することを知らされ、又諸々のことにいきづまり、人生に疲れると帰らねばならないところがあることに気付かされる。帰去来乎、帰りなんいざ魂の故郷へ。

平成十六年一月九 日  記