禅の道 藤田彦三郎

禅の道  第百四十五号    四八・元旦  

臨済宗建仁寺にお帰りになられた(道元)禅師は今は亡き師栄西禅師の霊に詣り帰山の報告と同行の師明全和尚の遺骨を懇ごろに葬り心より法要をなされたことで御座いましょう。暫くの間建仁寺に寓居なされて居る時にも愈々烈々たる念願は燃え御自分の立場を鮮明になさいました。正法眼蔵弁道話に、「それよりのち、大宋詔定のはじめ、本郷にかえりし、すなはち、弘法救生(ぐぼうきゅうじょう)をおもひとせり。なほ重擔をかたにおけるがごとし。」解釈をさせていただきます。

先師如浄禅師より印可証明を与えられ修証一如の妙趣を会得なされ一生産学の大事が終って大宋国の詔定年号の初め即ち我が国では安貞二年に川尻より建仁寺にお帰りになりました。どの様な念願を持ってお帰りになられたかと云いますと弘法救生で御座います。その当時まだ誰も知らない正法の仏法を弘め一切衆生を救済しないではおかないと云う熱烈な思し召で御座います。それは丁度重い荷物を肩に掛けた様なもので、これからの仕事は容易でなく一大決心をされた事が判ります。

禅の道  第百四十六号    四八・元旦

又建仁寺にお帰りになり、第一に鎌倉新仏教の開祖としての立宗の宣言とも云うべき普勧坐禅儀を撰述され自己の立場をはっきりとなさいました。普勧坐禅儀とは普く坐禅の儀式規範をお勧めになられた本の名前で御座います。

その内容は釈尊から菩提達磨に、菩提達磨によりインドから中国え仏法が伝えられそれから六祖曾渓山大鑑慧能禅師にいたり慧能禅師より洞山良介禅師に洞山良介禅師より先師如浄禅師えとあたかも一器の水を一器にもれなく移す如く嫡々相承された正伝の仏法の坐禅はどの様な意味か、それからその坐禅をする時の心得、作法はどのようなものであるか、最後にその様な坐禅でありますから出家、在家、男女、利口なひと、愚者と云はず誰でもやろうと思えば実行する事が出来るので一生懸命にする様にお奨めになられたので御座います。

現代は情報化時代と云はれ世界の出来事が良かれ悪しかれ直ぐテレビ、ラジオ、新聞に又週刊誌等を通じて報道され目の回る様な忙しさで御座います。こんな時普勧坐禅儀の一行でも二行でも毎日読んで心の糧とし静かに自分を振り返ってみるのも必要なことではないしょうか。

禅の道  第百四十七号    四八・元旦

「原ぬるに夫れ道本円通争か修証を仮らん、・・・。(中略)・・・身心自然に脱落して本来の面目現前せん。」どうぞ静かに読んで下さい。又その時代の社会情勢は北条泰時が執権政治を行っている時で天災が多く鎌倉の大地震、京都では悲惨な大地震、干魃、飢饉等が続き疫病が流行し平穏な時ではありませんでした。宗教界では依然として僧兵(平安時代末期以後に比叡山延暦寺又は興福寺などで仏法護持に名を借りて戦闘に従事した僧徒の集団)が強力で闘争、横暴が絶えず新仏教に対する迫害も愈々激化して居り法然上人や親鸞聖人の念仏門と門徒に対する暴行もつのるばかりで御座いました。この時代より約二十年程前には法然上人は土佐の国え、親鸞聖人は越後の国え流罪になられました。この様な世情のなかに正法を弘め衆生済度の念願に燃え宗教活動をなされる事は容易な事ではなかった事と思はれます。