寄稿文 利己心と利他心 平井満夫      

  なんということだろう、この世界の変わり方は。言うまでもなく、この新型コロナウイルス感染禍のことである。こんな変わり様は私の経験では昭和20年(1945)八月十五日の日本敗戦以来のことだ。あの時私は中学一年生だったから、よく覚えている。これから日本はどうなるのだろうかと、少年の心にも底知れない不安を覚えた。反面、毎晩の様に来た米軍の空襲の恐怖から解放されて、取り敢えずほっとしたという安堵感もあった。あれから数えると実に七十五年ぶりのことになる。あの時は戦争だった。今回は疫病。人類の歴史を変えるのは戦争と疫病という歴史家の言を聞くと、成る程そうかと実感させられる。

  ソーシャルディスタンスなどという耳慣れない言葉が出てきて、人間は普段いかに密に接して生活している動物かということを改めて認識させられた。この新しいウイルスは人間の過密社会、格差社会を直撃した。そして、人間の利己心と利他心を試したと思う。個人のレベルでも、国のレベルでもだ。国の利己心の発露が自国第一主義であり、ナショナリズムだ。先ずは自分の国が大事ということで、どの国も国境を閉じてしまった。このグローバル花の時代にである。島国で経済的にも比較的豊かな日本は、それでもなんとかやって行けるが、地理的にも経済的にも、そんなことが出来ない国が世界には沢山ある。本当は国同志お互いに助け合いが必要なのだ。

  たとえこのコロナ禍が収まったとしても、これからの世界は元通りに戻る事は無いだろう。果たしてどんな世界に変わるのか。予言する人はいろいろといるが、本当のところは誰にも分らない。しかし、何か道しるべのようなもの、未来に希望を持たせる、しかも現実的な展望が欲しいものである。

  フランスの経済学者で、著名な戦略家でもあるジャック・アタリ氏(元欧州復興開発総裁)は最近の新聞に次のように書いている。

「今回のパンデミックで、人類の支配は、見せかけにすぎないことがわかった。気候変動の脅威から生き残りたいなら、人類は人知を越えたルールに従わなければならない。

生き残りを望むなら、利己主義ではなく、利他主義が自身の利益になることを意識すべきだろう。現在と未来の人々を含めた、生きとし生けるものへの利他主義を実践すれば、人類は感動に満ちた冒険を堪能できるはずだ」(日経新聞2020年6月11日)

利他主義となれば、利他行を重んじる仏教の出番ではないかという期待が出てきてもおかしくはないが、物事はそんなに単純ではなさそうだ。利他行と言っても裏で利己心が垣間見えることもある。いや、見え見えの利他行もある。

余語翆巌老師がこんな話をしておられたのを思い出す。「善行を積むとか陰徳を積むという言葉がある。人の見ていない所で人のためになることをする。例えば、人知れず東司(とうすートイレのこと)の掃除をする。それは結構なことではあるが・・・」とあまり良くは言われなかった。本当に本人が捨て切っているかどうかを問題にされたのだと思う。人間の心の中で利己心と利他心の相克は単純ではない。アタリ氏は「最も合理的な利己主義が利他主義だ」とも述べている。

ところで、古代インドで栄えた仏教、平等社会を標榜した仏教が、ヒンズー教という社会階層を容認する宗教に取って代わられたのは、仏教が民衆から遊離した学問になってしまったからだと言われている。翻って現代の日本の仏教はどうだろうか。少なくとも民衆の中に入り込んでいるとは言い難いだろう。仏教の説く真理は不変としてもこれからの日本の寺院や教団はどうなって行くのだろうか。いささか気になるところである。これからの仏教教団は、利他主義の社会性を積極的に取り込んではどうかと私は思うのだが・・・。

仏教は利他主義よりもっと奥深いものだという反論もあるだろう。しかし、日本の歴史の中では凡そ千二百年前の弘法大師空海に注目したい。彼は真言密教を日本に広げた僧としてよく知られているが、生涯の大半を利他行に捧げ、当時の貴族中心の仏教を民衆のレベルにまで広げた人だと思う。しかも、その利他行が個人的範囲に留まらず社会性があり、当時としては極めて先進的な事業を実行している点が特徴的である。例えば、当時最新の土木技術を用いて四国の満濃池を大改修したり、今の大学に相当する学問所、綜芸種智院を開いて、当時は貴族や高級官僚の子弟のみを対象にしていた教育を、庶民にも開放したりしている。だからこそ今日でも「お大師様」と庶民に慕われているのであろう。当時の時代の変化を先取りした人だと思う。進化論のチャールズ・ダーウインは「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは変化に最もよく適応したものである」と述べている。