寄稿文 史跡桜井の駅跡 平井満夫

京都と大阪の丁度中間点位の所に、桜井の駅という史跡(写真下)があるのをご存知だろうか。駅というのは元々「うまや」と言い、街道筋に設置された休憩所のことだが、京都から西宮へ通じる西国街道に面した桜井の駅が有名なのは(というより有名だったのは)、その昔、楠木正成(まさしげ)が嫡男正行(まさつら)と別れた場所だからである。南北朝時代の建武三年(一三三六)西から京の都に攻め入らんとする足利尊氏の軍勢を迎え撃たんとして京から兵庫方面に向かう正成が、桜井の駅で正行に「お前はまだ若いから、河内の国に帰って家を守りなさい」と諭して帰らせた「楠公父子訣別の地」として知られている。正成はこの後、兵庫の湊川で尊氏と戦って戦死している。

何故それだけの事で桜井の駅が有名だったのかというと、太平洋戦争の戦前戦中は楠木正成が南朝の後醍醐天皇方の武将として忠臣の鑑と崇められていたからである。一方、北朝を奉じる足利尊氏は逆賊とされていた。敗戦後このような歴史観は排斥され、桜井の駅も忘れられた存在になった。忠臣や逆賊というレッテルは、戦前戦中の国粋主義者が自らに都合の良い歴史観を正当化するためにつけたもの  

桜井の駅跡 左の石像が楠公父子訣別の

で、正成にしろ尊氏しろ、ご本人達は全く預かり知らぬことである。彼等は彼等なりの理念なり利害得失に基づいて行動しただけのことである。

私が小学校高学年だった頃、日本は太平洋戦争の真最中で小学校の教育も軍国主義一色だった。私は当時千里山という大阪の北の郊外(現在の吹田市)に住んでいたが、小学校の遠足でよく桜井の駅に行ったものである。忠君愛国の戦意高揚のためで、近隣の小中学校も競って参拝する聖地だった。JR(当時は省線と言った)の線路は直ぐ傍を通っているのだが、駅は無いため最寄りの駅と言えば平行して走る阪急電車(当時は新京阪)の水無瀬駅で、そこから一面の田んぼの中を歩いて行ったものである。ヒバリが鳴いてそれはそれはのどかな田園風景だったことを憶えている。

最近の事になるが、JR線の山崎と高槻の中間に島本という新駅が出来て、それが桜井の駅のすぐ近くにあることは知ってはいたが、今更桜井の駅に関心は無かった。ところが縁は異なものである。友人の一人が島本駅の近くに引越したので関西にお越しの節はお寄り下さいとのこと。たまたま去る五月に関西方面に行く機会があったので、帰りに寄ってみることにした。

当日は幸い抜ける様な五月晴だった。友人の案内で、近くの西天王山の中腹にある若月神社に登った。新緑がすがすがしい。眼下に桂川、宇治川、木津川の三つの川が淀川に合流する辺りの、のどかな風景を楽しんだ。山を下りて麓の寿司屋で友人と再会を祝してビールで乾杯、駅に戻って史跡桜井の駅跡を訪ねてみた。

  実に七十五年ぶりである。史跡そのものはこんもりとした楠の森に覆われて変わりは無いが、周辺はすっかり変わっていた。新しく出来たJR島本駅前の広々としたロータリーのお陰ですっかり明るくなった。市民の憩いの場のような感じになっている。平日の昼下がりのこととて訪ねる人は殆ど見当たらない。ゆっくりと散策する。

  楠に囲まれた奥の方に見覚えのある大きな石碑があった。明治天皇の御製「子わかれの松のしずくに袖ぬれて昔をしのぶさくらいのさと」で東郷平八郎の揮毫とある。昔はこの石碑の前で一斉に最敬礼をさせられたものである。ひと渡り巡って出口の近くに楠公父子別れの石像があった。台字に「滅私奉公」とあり公爵近衛文麿の揮毫とあった。(写真下)出口の近くのベンチには近くに住む人だろうかお爺さんが一人、気持ち良さそうにこっくりこっくりと眠っていた。史跡を出て振り返ると、真っ青な青空のもと楠の森の緑が本当に目に沁みるように鮮やかだった。昔懐かしい唱歌「青葉茂れる桜井の・・・」を思い出した。

  帰路想ったことである。あの楠公父子別れの石碑にあった「滅私奉公」は戦前、戦中誰もが疑わない美徳とされた。国策として推奨された。これを書いた元総理大臣近衛文麿は終戦の年の十二月、連合軍から戦犯容疑者として出頭を命じられ、戦勝国の裁きを受けるを潔しとせずとの遺書を残し、東京杉並の自邸に於いて青酸カリで服毒自殺した。

      

        

「滅私奉公」と言う言葉を信じ、また信じさせられていかに多くの人が先の大戦で命を落としたことか。そして、戦後は「滅私奉公」などと口にする人はいなくなった。なんとも空しい思いである。私は終戦の時、中学一年生であったが、この百八十度の道徳観念の変り様を目の当たりにした。道徳の価値観は時代によってこんなにも変わる。一体、時代が変わっても変わらない道しるべはないものだろうか。どの様に生きれば心の安らぎが得られるのであろうか。禅の師匠、我が師余語翠巌老師は、道徳と宗教の違いについて次のように述べておられる。

「いつの時代でも、べきだべきだという規範、べからずべからずという規則があって、人の生々たる動きを制して行く。その規範規則たるものは、その時代、その土地特有のものであって、いつでもどこでも間に合うものは少ないにもかかわらず、その時代、その土地に於いては絶対さをもっているようである。今日の日本でも、何かというと憲法違反という。憲法に照らして見ると疑義があるというようなことを錦の御旗のようにかざしているが、その憲法も戦後わずかのいのちである。いつまで続くのかわかりはしない。人間の約束事であって見れば、もうやめようと言って変えることも出来る。人間の約束事でない世界に憩うならば、雨降らば降れ、風吹かば吹けということであろうし、茶に逢うて茶を喫し、飯に逢うて飯を喫する風光と言うことになろう」

  「人間の約束事でない世界に憩う」とは宗教の風光に生きるということであろう。一方、道徳は人間社会の約束事である。法律も然り。だから変わるのは当たり前と言えば当たり前だが、だからと言って道徳や法律をないがしろにしてよい訳てはない。人間社会に生きる我々にとって、そのあたりの兼ね合いが実生活においては中々難しい。

  釈迦が臨終を迎えられた時、途方に暮れた弟子達は「お釈迦様が亡くなられたら、私達は一体何を頼りに生きて行けばいいのでしょうか」と訪ねた。釈迦は「自灯明、法灯明」と答えて息を引き取られたと伝わる。灯明とは、道しるべ、或いは心の拠り所とでも解すべきか。自灯明、即ち自分自身を道しるべとせよということは納得である。どんなによい教え、よい言葉であろうと最終的には自分で納得してから信じなさいということであろう。法灯明、この法は、余語老師によれば人間の作ったものではない。水は常に高きから低きに流れるように、人間の存在とは無関係に存在する天地の法、真理である。人間は自我の赴くままに生きても心の安らぎ、安心(あんじん)は得られない。安心は自我を制御してこそ得られる。これも釈迦の教えであり、真理であり、仏法という。納得である。

  では、人間の作った道徳や法律に従うべきか否かの判断は何を道しるべにすればよいのだろう。具体的には、例えば前掲の「滅私奉公」をどう捉えるかということである。「滅私奉公?」もうこんなスローガンには騙されないよ、というのが大方の日本人の受け止め方であろうか。戦中戦後の苦い思い出のある私も正直この言葉には嫌悪感を覚える。戦争を知らない若い人は、これはどういう意味ですかと聞くかもしれない。しかし反面、いかに時代が変わったからとて国民がこれを全く否定してしまえば、国家という社会組織は成り立たなくなってしまうだろう。

人それぞれの判断があろうが、私はここでも釈迦の「中道の教え」が道しるべになるのではないかと思う。釈迦は修行の中で極端に厳しい、人間離れしたような修行をしても得るものはないと悟られた。さりとて、自我の欲するままにやりたい放題に生きても安心は決して得られない。そもそもその事に気付かれたからこそ釈迦は修行の道に入られたのだった。何事もほどほどにというのが中道の教えである。これも真理、仏法であろう。

  久しぶりに訪れた桜井の駅の印象。私の感慨などつゆ知らぬ気に、楠の緑は少年の私が見た時と少しも変わらず、五月の空にまぶしく光り輝いていた。          (令和元年八月)