御垂示 死に対する心構え 余語翠巌

死に対ずる場合も恥ずかしくない死に際であってほしいと願い、 せめては畳の上で死にたいなどと思うことも、人情として至極のこと と思われるが、それもやはり人情のわくの中のことであって、真の安楽の場所ではない。真の安楽というのは、死も生も貫いて行くもので なくてはならぬ。 『信心銘』という祖録の冒頭に、「至道は無難なり、唯捒択を嫌 う」とある。
変りなき、まことの幸福は、より好みをしないことだよと云うことである。変りなきまことの幸福というのは、若い時でも、 年老いても、金があってもなくても、地位の高低にかかわりなく、凡ての者が享受できるものである。死も生も貫いて行く真の安楽とは、 そういうものである。二つの想念の間を漂うているのが人間であり、人情であるとすれば、より好みをしないようにと人情のわくの中で努 めても、それは木によりて魚を求むる類の難事である。

されば、より好みをしなくてもよい場所は人情を超えて行かねばならぬ。「死にきれ」と云われるのは人間のそろばん勘定を捨てよと云うことである。百尺竿頭進一歩もその意味である。百尺の竿頭に上って、更に一歩を進めるならば、墜落すること明白である。それは人情の中の自分を殺すことである。常識を超えた智慧を手に入れることである。宗教は出世問のことだと云われる意味はこのことである。より好みをしない場所というのは、出世間のことである。(中略)小さなはからいを捨てることである。生まれてくる時、小さな意志のはからいなく、気がつけば生まれた自分がそこにあることに気がつくように、任運に歩を運んで生き、死もまた大いなる手に任せておく
安らかに畳の上で死ぬ方が好ましいし、そうありたいと切に願う、されどそれが許されぬ場合もあろう。

ゆるされし よろこびを生き
ゆるされし かなしみを生く
生きの身の生きの命の
きわみには えみて眼とじん
わざわいのさちと計りて
さしひきは「なし」とこたえん
「なし」こそはいともあかるき
大慈悲のはじめにかよえ
「海原にありて歌える」

私はこの歌の作者を知らないが、いつも口ずさむと万人の心の底の思いが浮んでくるように思う。生きてある間はそれぞれの思いもあり、ほめたり罰したりすることも必要でもあろう。そしてまた人間は間違いをすることも、ある意味において人間の特権であるかもしれない。間違いがないとすれば、それは定められた道であって、一人一人何の責任もない。間違いをやったり正しいと云われることをやったり、すべて私共のやることが、ゆるされてあると思う思いに裏付けされている所に救いがありそこから何とも云えぬ慈悲の思いが生まれる。ゆるされてあるが故にとて悪事も出来るなどと考えるのは、そういう深い思いに打たれたことのない人のいう事である。

所詮は死に対する心構えも、自らの小さいはからいをすてることによって、安らかに対し得るのである。

(昭和四十二年二月)余語翠巌著「去来のまま」より転載