寄稿文 請求書と領収書 平井満夫

かなり以前のことだが、浅草の浅草寺の御住職が、テレビのインタービューの中で「みんな御利益、御利益と請求書を持ってお参りに来るが、ちと領収書も持って来んかいと私は言ってるんです」とコメントされたのが印象深くいまだに私の耳に残っている。

確かに神社仏閣にお参りする善男善女は大概請求書を持って行くようである。大雄山の願文のリストを見ても、殆どが「家内安全」とか「商売繁盛」など自分本位の請求書に属する類であって領収書の類は末尾の「祈願成就御礼」位しか見当たらない。およそ世の中の願文というとそういうもので別に大雄山に限ったことではない。それが人情というものであろう。山中鹿之助は「われに七難八苦を与え給え」と祈ったそうだし、宮本武蔵は「われ神仏を敬えども、神仏を頼まず」と誓ったという。戦国武士の心意気が伝わってくるが、果たして本心はどうだったであろうか。ここで願(がん)というものについて少し考えてみたい。

浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人(1415ー1499)の御文章の中に「まづ当流の安心(あんじん)のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただ.あきなひをもし、奉公をもせよ。猟すなどりをもせよ。

かかるあさましき罪業(ざいごう)にのみ朝夕(ちょうせき)まどいぬる我等ごときのいたづらものを、たすけん、とちかひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。

このうへには、なにとこころえて念仏まうすべきぞなれば、往生は、いまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏まうすべきなり。これを当流の安心決定(けつじょう)したる信心の行者とはまうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明三年(1471)12月18日」

とある。浄土真宗で御文章と云うのは、蓮如上人が時々に信者達に信仰とは何かを説かれたお手紙を集めたもので、「おふみ」とも称される。室町時代の言葉遣いではあるが平易な文章なので解説の必要もないと思われる。

この中の一節「かかるあさましき罪業にのみ朝夕まどいぬる我等ごときのいたづらもの」に注目したい。大抵の人は「自分は何も罪を犯すような悪い事は何もしていないのに、『罪業にのみ朝夕まどいぬる』とは何事かと思うのではないだろうか。そういう人は(私自身を含めてだが)毎日生き物の命を殺して食べて生きていることに気がついていないのだ。牛や豚や魚の肉を食べていながら、美味しい不味いは感じても、生き物を殺したとは自覚じていないのだ。野菜や果物だって生きているのだ。そんな悪い事をしながら罪を感じない我等人間の偽善を上人は、わるさをしながら知らんぷりをするいたずら小僧にたとえておられるのだ。我々は分別くさく生きているようだが、その実みんな(上人ご自身を含めて)「いたづらもの」に過ぎないのですよという訳だ。「そんな『我等ごときのいたづらもの』でも救ってあげようというのが弥陀如来様だから有難いことではないか。だから南無阿弥陀仏と念仏を称える時には、物欲しげにお称えするのではなく、有難うございますと感謝の気持ちをこめてお称えしなさい」と上人は諭しておられる。つまり請求書ではなく、領収書を持ってお祈りしなさいということである。それが安心の道ですよと説かれている。

余語翠巌老師も「道了さまのご利益とは、道了さまの御前では一番素直な自分が現れるということだ。家内安全とか商売繁昌とか自分中心の勝手なお願いを叶えて下さることがご利益ではない」と言っておられた。また、「何事も願わない祈りが最も純粋な祈りであり、それが坐禅だ」とも言われた。今回の御垂示にも「間違いをやったり正しいと云われることをやったり、すべて私共のやることが、ゆるされてあると思う思いに裏付けされている所に救いがありそこから何とも云いえぬ慈悲の思いが生まれる。ゆるされてあるが故にとて悪事も出来るなどと考えるのは、そういう深い思いに打たれたことのない人のいう事である」とある。「慈悲の思い」とは報謝の心であり、領収書を持ってお祈りしてこそ心安らぐ道に通じるということであろう。

請求書か領収書かの二者択一というのではない。人情を言えば請求書だろうが、領収書も忘れずにということだ。我々翠風講の講員は大雄山最乗寺に上山する度に、何かしら心の安らぎを頂いて下山して来る。有難いことだ。お山あっての翠風講である。願わくは領収書も胸にお参りしたいものである。そして、お山に寄進する心を大切にしたいものである。