寄稿文 日々断片 小松勝治

▼『八月の記』
八月は六日九日十五日永六輔少年時代、私が生まれ育った庄内地方も終戦の年1945(昭和20)年に米軍B29 の爆撃を受けた。その時の記憶を八月の記としてまとめた。コロナが無ければ大雄山の夏期禅学会に向けて身の回りを整理しはじめて、パワースポットの大雄山で山主様をはじめ年に一度お会いする方々と寝食を共にし、二泊三日の行事が無事円成し下山する頃には初秋の涼風が吹き始めるのが恒であった。

それがない為に一挙に77年前の八月の記憶をたどることにした。東北・庄内・酒田の八月の記憶である。地理的には日本海・西方に飛島。向かって左側に最上川。北方に鳥海山を借景とする風光明媚な日和山公園がありその南側にひらけた街が酒田である。町は庄内平野を抱えるようにして戦前は栄えていた。『本間さまには及びもないがせめてなりたや殿様に』とうたわれた本間家本邸・別荘もすべて酒田市内に有る。その酒田を守る為に日和山の高台に高射砲を据え高い松の枝を切り落とし米軍のB29 を狙い打ちした。為に私が通学していた通称大学校( おおがっこう) と呼ばれていた琢成尋常小学校が爆撃を受け学校として機能しなくなった。縁故疎開で母の実家に疎開し本楯小学校文教場へ五月から通学し始めた。小学校入学・疎開・転校・田植・終戦と五ヶ月の間にめまぐるしい環境変化であった。酒田も田舎であるが、さらにその田舎はもの珍しく、田植機を使わない家族総出の田植は小学校一年生の私にも『こでうち』という役割分担があった。八月の敗戦に至る私の誕生からの七年間は子供の記憶も曖昧でそう簡単に語り尽くすことは出来ない。翠風講ニュースレターとコロナのおかげで書いてみようという気持ちになった。曖昧な記憶の中から次の事がらがおもいだされる。聴く人も、書いたものも少なく、今書き残して置けば何かの役にたちそうな気がします。次回以降どこまでやれるか?老化防止も兼ねてやってみたい。
講員ならびに本レターの読者の投稿・反響を期待しながら、お付き合いいただければ幸いです。

『淵庵不玉亭』・松尾芭蕉が前後九日間滞在したところ。筆者はその敷地内で生を受けた『下の山』・齋藤茂吉が歌集『白き山』で1947( 昭和二十二) 年に下の山は/ 今の本町/ 三丁目/ 不玉のあとと/ 言へば恋しもと詠んだところ・町名『公会堂』『本間家本邸』『本間家別荘』『妙法寺境内とさいかちの実・通称がらがら』『佐藤公太郎さんの事』『強制疎開』『飯野公文』『佐藤清二眼科』『叔父の朝読』『南京虫』『父・叔父の出兵』『キング衛夫』『最上川河川敷』『祖父の仲介業』『眼科医清治さんと朝の読経』『巫女さんと朝のお勤め』『新井石禪』『おしんの宿』』『三社宮とコロナ』等々。この中から翆風講目的に合っているものを選んで投稿致したく乞うご期待。
2022( 令和四) 年八月十五日( 月) ・月遅れぼん・終戦記念日・一粒万倍日に記す


▼『続・鈴木副講元叙勲の記』
翆風講の鈴木茂義さんが昨年叙勲されたこと。内容は瑞宝単光章であったこと。昨年コロナ禍でお祝いの集いが出来なかったので、今年一月二十五日に記念撮影とお祝いの集いがある予定だったこと。前号でお話しした通り。賞状と勲章は受け取っているのですが一連のセレモニーがまだ済んでおりません。鈴木さんのモーニング姿の写真もこれからです。セレモニーが遅れた分盛大にお祝いしたいものです。前回迄にご紹介したように、鈴木さんはご両親も翆風講の講員でした。そしてお父様も生前に叙勲されております。皆様にご披露して八ヶ月。本件鈴木さんはあまり大袈裟にしないで控えめにとのことです。来年の新春総参拝までには一連のセレモニーが無事円成されることを切にお祈りいたします。
一回目令和四年正月寒中にしるす。再録2022( 令和四) 年八月十五日


▼『続・長津田大林寺参禅記』
一月八日土曜日朝六時止静の土曜坐禅会に参加した。五百羅漢の前に少し高い坐禅の単が有る。普通の寺院でこんなに環境が整った坐禅堂は珍しい。このことは前号でお話しした。今回は大林寺末寺の『随流院』のお話しをします。横浜線長津田駅徒歩三分のところに有り火の用心と豪快に墨書きされたお札を出し、「火防の観音」として親しまれております。この随流院がこの春建て替えすることになり、旧本堂の朝六時うちだしの最後の朝課と新本堂の最初の朝課に随喜した。特に用が無い時は百八日間と自分で決めて今日で百三日目八月二十日で百八日目無事円成する。又『長津田大林寺』で都合のつくときは毎週土曜日座らせていただきます。
2022( 令和四) 年八月十五日記す