禅の道 藤田彦三郎

歎異抄の第一条は親鸞聖人がお作りになられた正像末法和讃を引用して書いて居られるのではないかと存じます。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。」

解釈をさせて頂きます。

すべてのものを救はんではおかないと云う阿弥陀仏がお誓いなされた本願、特に第十八の願の不思議な(私達が頭で考えた處を超えた、又理屈を越えた處)お力に助けられて往生させていただくのだと堅く信ずる事で御座います。往生とは私達が死んで行く處ばかりでは御座いません。悩み苦しみ、可愛い憎いなど対立のある計らいのある迷いのこの世から、計らいを越えた處さとりの世界、彼岸に生まれかわる事で御座います。

般若心経にはここの處を阿耨多羅三貌三菩提と御示しで御座います。或いは無上正等覚又無上覚など申し上げます。往生させていただく事を堅く信じて南無阿弥陀仏と念仏しようと云う心が起きたその瞬間、その瞬間が最もたいせつな處と存じます。その瞬間阿弥陀如来は摂め(おさめ)取って捨てないと云う大慈大悲に私達は救はれて居るので御座います。第166号    昭和48年4月1日

これと同じ事を正法眼蔵生死の巻に

「ただ我が身をもこころをもはなちわすれて佛の家になげいれて佛のかたよりおこなわれてこれにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれずこころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる・・・云々」と御座います。佛の家に投げ入れる事が大切と思はれます。阿弥陀如来の本願は老人でも、小さな子供であろうが男であろうが女であろうが善人であろうが悪人であろうが凡ての人を分けへだなく救ってくださるのであります。ただ救はれる要(かなめ)、最も大切な事は信心である事に目覚めなければいけないので御座います。その訳ははかりしれない罪業のおもい、毎日煩悩に悩んで居る人々を一人残らず救はんではおかないと云う阿弥陀如来のお誓いであるからであります。

それですから本願を信ずる人は南無阿弥陀仏と念仏をとなえる意外の善い行を必要とはしない。念仏よりすぐれた様な善い行はないからであります。これとは反対に煩悩になやんで居る私達が犯した悪行もふりかへってみて救はれないのではないかと疑い不安で心配する事はさらさらないのであります。

「大慈大悲の阿弥陀仏の本願を信じて南無阿弥陀仏と念仏して救はれる事をさまたげる程の悪い行は絶対にないのである」と聖人は仰いました。この第一条が浄土真宗の絶対他力の救いで御座います。世間ではこの他力本願と云う言葉をよく知らないで云って居る事が多いと思います。自分は何もしないで他人まかせ、他国任せ等に依って生きていく事に使って居る様で誠に残念に思っています。親鸞聖人の云はれました他力本願とは只今書いて参りました様にそんなものではないのであります。阿弥陀仏の本願を信じお任せして、その無限の慈悲のお力に依って目覚めた、喜び溢れた報恩感謝の日暮らしをさせていただく事が、他力本願ではないかと存じます。