御垂示 仏誕生 余語 翠巖

大智さまの仏誕生の頌に

閻浮八万四千城     閻(えん)浮(ぶ)八万四千城

不動干戈致太平     干戈(かんか)を動(どう)ぜず太平を致す

活捉崔曇白拈賊     崔(く)曇(どん)の白拈賊(びゃくねんぞく)を活捉(かっそく)して

雲門一棒不虚行     雲門の一棒 虚(みだりに)行ぜず

というのがあって、開巻第一にあることもあって有名であるが、その味わい方もまちまちのようである。雲門の一棒というのは、釈尊降誕にあたって、周行七歩、天上天下唯我独尊と言われたことについて、雲門がその場に在ったならば一棒の下に打ち殺して狗子にくわせてやったものを惜しいことをしたと言うたとあることを言う。まことに荒っぽいことを言うたものであるが、之を単に却下したすがたと一口にすまさずにいささか蛇足を加えて見る。

いつの時代でも、べきだべきだという規範、べからずべからずという規則があって、人の生々たる動きを制して行く。その規範規則たるものは、その時代、その土地特有のものであって、いつでもどこでも間に合うものは少ないにもかかわらず、その時代、その土地に於いては絶対さをもっているようである。

今日の日本でも、何かというと憲法違反という。憲法に照らして見ると疑義があるというようなことを錦の御旗のようにかざしているが、その憲法も戦後わずかのいのちである。いつまで続くのかわかりはしない。人間の約束事であって見れば、もうやめようと言って変えることも出来る。人間の約束事でない世界に憩うならば、雨降らば降れ、風吹かば吹けということであろうし、茶に逢うて茶を喫し、飯に逢うて飯を喫する風光と言うことになろう。それをその時代特有の、その土地独特のべきだ、べからずだと言う規範の、高き彼方のより処とされる偏見にとりつくことをきつく拒否することが、雲門の一棒ということである。されど又雲門の一棒もさることながら、それも空しいことと言うのではないが、ちと手荒過ぎましょうから、それを活けどりにしておきましょうと言う。好肉上に創を生ずるようなことなく、余計なことをしなくても、それはれそれで天下は太平ですよと言う。それは捒択をきらう心であり、それはそれと言う心であって、鳥啼山更幽の消息である。

かく見来れば列祖の示される学道の消息は文字通り一如である。『学道用心集』の中に「行を迷中に立て、証を覚前に獲る」とあるのを覚の当坐に証がころっと手に入るというような注釈も間々見ることであるが見当ちがいと言うものである。行に行のあとなく証に証のあとなく、すべて身心放下のところが学道の始終であり、茶に逢うて茶を喫し、飯に逢うて飯を喫する処である。(昭和五十一年十一月)

余語翠巌著「去来のまま」より転載