御垂示 禅戒抄より 余語翠巌

というのはどういうことかというと、一大事因縁とかいろいろ説明かありますが、前々から申してきたように、この説明でいきますと、天地法界のいのちのことを言うのです。それを禅といい、戒と名づげると書いてあります。ですから戒というのはいましめではないのです。あれをしてはならん、これをしてはならんという、それとは違うんだぞ、ということです。禅と戒とは一つじゃ、ということです。そういう説明をこれからするというのです。
続けてこの禅と戒というのは「禅戒の称、由って設(きた)るところ」と書いてありますが、一番もとのところを説明するというわけですから、今回はこれを読んでいこうと思うのです。一番もとのところの信仰の立揚から言いますと、今までも何べんも言ってきたことですが

釈迦牟尼仏見明星悟道云
我与大地有情 同時成道

という偈があって、これはお釈迦さまのお悟りのときのことが書いてあるのです。仏伝では釈迦牟尼仏は12月8日に明けの明星をごらんになってお悟りをひらかれたということになっています。その時に「我与大地有情と同時に成道す」と言われたというわけです。

これを文章のままに受けとりますと、「自分が悟りをひらいた時に、自分と一切のものと一緒に成道ができた」ということになります。そういう受けとり方が普通に言われている素直な受けとり方です。ところが、祖師方は、これはそんなことじゃないんだ、とおっしゃる。この『我(われ)』とは釈迦牟尼仏に非ず、とおっしゃるわけです。伝光録には「釈迦牟尼仏もこの『我(が)』より出生し来たるなり」と書いてあります。そういう『我』だと書いてあります。続けて「釈迦牟尼仏のみに非ず、三世の諸仏もまたこの『我』より出生し来たる。三世諸仏のみに非ず、大地有情一切のものがこの「我」より出生し来たるものなり」と書いてあるから、この我は天地のいのちのことです。本源のものを我というのです。そういう受げとり方をしてあります。

同時にということは、いつでもということです。過去でも現在でも未来でもいつでも成道す、ということは、もうちゃんと全きものとしてここにあるのだということです。過不足なく、剰(あま)ることなく欠くることなく、ここにあるのだということになります。これが戒のもとなのです。かくの如く戒を定めたもうと書いてありますが、これが禅の世界です。

この考え方は全部に通じています。例えば正法眼蔵の中の現成公案という言葉の公案は『我」にあたるのです。もとのものです。現成は現にできてあるもの、ですから大地有情です。全部そういう関係になって出てきます。天地法界のいのちが、ここに見えているような形に、ここに現成をしておるのです。

従容録に「百草頭上無辺の春」という頌があります。赤い花も黄色い花も紫の花も、そのひとつひとつが春の顔です。春の赤い顔、春の黄色い顔をしているのです。春なんていうものはつかまえられるものではないから、そこに咲いている一つひとつの花に春の姿が現じておるのです。白い花、赤い花、みな同じ春の顔です。白い花がよくて赤い花が悪いわけではありません。人間もそのとおりです。春ということは天地のいのちです。仏さまの名前で無量寿仏と言いますが、無量寿仏の現じておる姿、それを大地有情と言っているわけです。人間の寸法をはなれてみれば、みな同じです。私共もこういう形をしてお互いみな天地のいのちを生きていることになるのです。人間のよいとか悪いとか、きれいとかきたないとかいう寸法をとって考えなければなりません。

禅戒というのはある意味では仏戒だということです。仏さまの行いなのです。お互いのあれをしてはいけない、これをしてはいげないというような制限の世界ではなくで、仏の姿仏の行い仏戒というのです。そうせずにおれなくなってくるのです。だから人間の一番自然な姿を戒というのです。仏の方から見た自由な生き方が仏戒です。

いつも言うことですが、このような姿に生まれてきたのは自分の注文ではないのですから、ごてごていうことはいらんということです。このように授ってきて、このようにそのまま命を終るわけです。その中でいろいろあるのは人間の寸法なのです。同時に成道をしておるということは、ちゃんと過不足なくそこにあるわけなのです。そういう自然の姿が現成していることを戒という名前で言うということなのです。だから普通の戒律を守るということとは甚だ隔りのある受けとり方です。そういうことをといいというと、禅と戒とは一つのことだということを言うのです。
余語翆巌著「禅の十戒」(地湧社)より抜粋