御垂示 独坐大雄峰

成仏ということについては何度もお話ししましたが、凡夫が仏になるということではないのです。仏が仏の行いをしているのがこの世の姿だということです。仏というのは天地のいのちだと言ってきました。天地のいのちがその姿を現じているのが、このいろいろな姿になっている、それがそのままで天地のいのちなのです。私たちが笑ったり怒ったりしている、それも天地のいのちなのです。その他に特別なことを探そうと思っても何もないのです。ありもしないものを探していることが分かればそれでいいのです。

独坐大雄峰という言葉がありますが、中国の大雄山に在った百丈懐海という和尚の言葉です。ある僧が「如何なるか是れ奇特の事」特別のこととはどういうことですかと問うたところ、百丈和尚が「独坐大雄峰」と答えた。独りここに坐っておるのだ。ここに在ることが奇特の事なのです。すばらしい奇特の事です。お互いに一番根元のことを忘れて枝葉末節のことに振りまわされていませんか。教え自体もよけいなことを教えてある。「独り大雄に坐す」お互いさまがみなそうなのです。そこにそうやって坐っていることが奇特の事なのです。超能力でも手に入れないと奇特の事でないように思っているのは困る。何ともないことがそれで結構なのです。珍らしいことがあったら、それは枝葉末節のことです。

「成仏の直道もまたこの戒なり」とここでも戒という字を使っていますか、なにも特別のことではありません。といってもといってもといっても、天地の姿といっても同じことです。
余語翆巌著「禅の十戒」(地湧社)より抜粋