生きていてこそ仏(ほとけ)平井満夫|翠風講ニュースレター第9号 平成16年(2004)9月発行

生きていてこそ仏(ほとけ)平井満夫

「宗教というものは学問とは違う。あんた自身はどう思うかというのが宗教だ。キリスト教ではこう説いています、仏教ではこう説明します、ということではないのだ。あんた自身の心にとってどうなんだというのが宗教だ。このところを本末転倒すると仏教学栄えて仏教亡びることになる。」余語翠巌老師は常々そうお話しになっておられた。

ではこの私にとって仏教とは、ということについて少し書いてみたい。

今年の春の翠風講の総会での話し合いでは、前号のニュースレターの武田さんの文章にあった「あの世のガイドブック」という言葉がひとしきり話題になり(この言葉自体新鮮な語感があると感心した)、その会話の中で古川和子さんがこんな話をされた。「私がある時、余語老師に〈御前様、あの世はあるのでしょうか?〉とお尋ねしたところ、しばらくお考えになっていた老師は、〈お任せじゃ。〉と一言おっしゃった」と。このお話しは私には非常に印象深かった。

それにつけて思い当たるのは古代仏典(前田専学著「ブッダを語る」NHKテキスト)にある「毒矢のたとえ」でのお釈迦様のお話しである。その部分を分かり易く現代流に翻訳すると、ざっと次の様な話しになる。

ある時、お釈迦様に「霊魂は不滅でしょうか? あの世はあるのでしょうか?」と問いかける者がいた。
それに対してお釈迦様は次のようにお答えになった。
「あの世はあるかも知れない、無いかも知れない、私はそういう問いにはっきり答えないし、そういう議論に興味も無い。
何故ならそんな問題を百年議論していても結論は出ないからである。
私が求めているのはそんなことではなく、どうすれば人は心安らかに生きて行けるのか、そのためには何を実践すればよいのか、正しい行いとは何かということで、それらについてははっきりお答えしよう。」

私はここに仏教の本質があると思う。一般的には仏教は葬式仏教とか言われて葬式、故人の法事や墓参など、死んだ人を供養する古臭い宗教、言わば人を「あの世」に導くのが仏教の役割のように思われがちである。しかし、それが本質的なものではないことは前述のお釈迦様のお言葉からして明らかである。そもそも仏教はこの世の成り立ちからしてキリスト教や他の宗教の様に創造の神を作ったりはしない。この現実の存在を「如是」―よって斯くの如しーと言うのみである。問題を―今ここに生きている自分―という現実の一点にしぼり、いかにすれば人は苦しみから解放されて心安らかに生きて行けるか、そのためには何を実践すればよいのかを説くのである。生きていてこそ仏というべきか。本来の仏教は、空疎な想像や議論を超越した極めて現実的、実践的な宗教だと思う。

「あの世はあるのですか?」という問いに対する、「お任せじゃ。」という余語老師のお答えにはそれらの全てが包含されていて、実に意味深いお答えだと思う。また、「死んでから仏になるなんて、そんな呑気な話しではないのだ。」と言われたお言葉が思い出される。

翠風講 ニュースレター第9号 平成16年9月発行より抜粋

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