悟るとは一体どういうことであろうか。迷うとはどういうことであろうか|迷中又迷

寄稿文「迷中又迷」 平井 満夫

東京世田谷区上野毛の五島美術館に愛染明王の像が展示されている。平安末期の仏師運慶の作で、眼を大きく見開き髪の毛を逆立てた憤怒の形相をした迫力のある像である。その解説によると愛染明王とは愛欲などの迷いがそのまま悟りにつながるほとけということらしい。道元禅師は「弁道話」の中で修証一如、即ち修行と悟りは一体のものだと示しておられる。修行なくして悟りはないし、悟りなくして修行なしということ。してみると愛染明王においては愛欲が修行だということになるのだろうか。いずれにしろ、昔の人も仏教を結構柔軟に受容していたのだなと微笑ましく思った。

  悟るとは一体どういうことであろうか。迷うとはどういうことであろうか。寺で修行に修行を重ねても迷っている人もいれば、寺などに行かなくても、また修行らしい修行をしなくても悟っている人もいる。愛染明王のように愛欲の中に悟っている人もいる。人様々である。

道元禅師の「現成公案」の巻に「さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり」の記述がある。どういうことなのか。これについて余語翆巌老師は次のように解説しておられる。

『「さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり」という文句が出てきます。これも迷いづめに迷っている人もいる、悟りの上にさらに悟っていく人もいる、というような言葉の上の意味ですが、それぞれの姿でということでしょう。

迷いとか悟りというけれど、何を規準にしてそんなことをいうのか。迷いがあれば悟りがある。迷わん奴には悟りはないわけです。もちろん迷わん人もいますが、自分で迷ったと思いますか。他人がそれは迷いだというからそう思うので、自分で迷っていると思っている人は滅多にいないでしょう。

禅の方の言葉で、平地に波乱をおこすと言います。何もないところにいらんことをして問題をおこすわけです。いらん世話やくからだ、ということです。

釈迦といういたずら者が世に出て、みな迷惑してるなんて一休さんが言っていますが、余計な者が出なければ問題なかったわけです。「お前たちは何を迷うておる」という釈迦など世に出なければ、何も迷ったりすることもないと、そういう言い方もあるわけです。この世は闇だ、迷いの中に生きておるというかもしれんが、親の迷いがなかったら子は育たんかもしれませんぞ。ただそれだけの姿だと思っていればいいのに、悟りとか迷いとかいう名前をつけるから具合が悪いのです。よく根源まで戻って考えてみなされ。迷いも悟りもない世界があるはずです』
(余語翆巌著「正法眼蔵」現成公案講話より)

「永平寺での修行はいかがでしたか」ある時、私はこんな質問をお坊さんにしてみたことがあった。そのお坊さんは田舎のお寺の住職をしておられて、若い時永平寺で二年間修行をしておられたと聞いていたからだった。その答えは「そう。肉体的には辛い思いもしましたが、精神的には今より楽でしたね。やるべき事をやっていればよいのですから・・・」というもので。厳しい修行で有名な永平寺のことだから「いやー、大変でしたね」といった返事を予想していた私にはやや意外な感じがしたものだった。

しかし、それは案外正直な実感かもしれないと後で思うようになった。小さなお寺でも住職ともなればいろいろと気苦労の多い日常生活だろう。寺の経営、布教、檀家の法事のお勤め、自分の家族を養わねばならないし、子供の教育のこともあろう、地域の人達との付き合いもあるだろう、勉強もしなければならない。それに比べれば、やるべき事をやってさえいればよかった永平寺の修行の方がむしろ精神的には楽だったのかもしれぬと。

浄土真宗で中興の祖といわれる蓮如上人(1915―1499)が一門の信徒に与えた書簡集(西本願寺では「御文章」、東本願寺では「御文(おふみ)」と称する)の中に、次の様な一文がある。

『まづ当流の安心(あんじん)のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただ,あきなひをもし、奉公をもせよ。猟すなどりをもせよ。かかるあさましき罪業(ざいごう)にのみ朝夕まどいぬる我等ごときのいたづらものを、たすけん、とちかひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこころえて念仏まうすべきぞなれば、往生は、いまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏まうすべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とはまうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。』文明三年(1471)十二月十八日

「今の世で安心に生きるにはどうすればよいかと問われれば、しいて悪い心や妄念妄執を捨てよとは申しません。商売でも狩人でも漁師でもよいから普段のなりわいを続けていればそれでよいのです。どうせ我々人間は生き物を殺して食べてしか生きて行けないのです。毎日こんな罪深いことをしながら、ああでもないこうでもないと過ごしている我々のようないたづらものでも救ってあげようと誓っておられる弥陀如来がおられると深く信じて、どうぞおたすけくださいという願いが本当に真剣なものであれば如来は必ずたすけてくださるのです。ですから南無阿弥陀仏と念仏を称える時は、阿弥陀仏如来様お助け頂いて有難うございますと報謝の一念でお祈りすることです。こういう人を今の世で安心の定まった信心の行者というのです」私なりにざっと現代風に要約すればこういうことになろうか。

安心とは心安らかと言うことで悟りの境地とも言えよう。文中に修行という文字は出てこない。しかし、文の末尾に「信心の行者」とある。「信心の修行者」と解釈すべきであろう。修行というと寺での坐禅、読経や作務、或は深山渓谷での荒行などをイメージしがちで、仮にこれを「体の修行」とすると、もっと広い意味で我々の日常生活の起き伏しの中での信心の修行、即ち「心の修行」が説かれていると私は解する。してみると日常での些細な夫婦喧嘩も修行であろうか。

弥陀如来の本願を信じれば「必ず如来の御たすけにあづかるものなり」と断言されているが、それには「たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば」という条件がついている。逆に言えば「一念の信」がまことでなければ、救われませんよという意味にもとれる。自分の心の中に救って貰いたいという真剣な願いがなければ駄目ですよということ。何も救って貰いたいと思っていなくても如来が勝手に救ってくださる訳ではない。自分で自分を救いたい、救って貰いたいという真剣な願いがなければ如来は救ってくださらない。ましてや、「如来は誰彼なく救ってくださるのだから、悪いことをしてもかまわない」とか、「修行などしなくてもよい」と考えるのは論外なのだ。自分を救ってくれるのは、結局は自分自身だということ。自力である。阿弥陀如来がどこか遠い空の向こうにましますのではなく、実は自分の心の中におられるのだということだ。

一般に禅宗系は自力、浄土宗系は他力という見方が行われている。他力本願とは他人の力に頼ることと通俗的には思われているが、そうではないのだ。他力とは、自分の意志ではどうにもできない力を指すのだ。例えば「おぎゃー」と生まれてきた自分という存在である。他力とは余語老師の言われる「天地のいのち」に他ならない。その意味では禅宗も他力本願だと私は考えている。蓮如上人が説いておられるのは、坐禅や読経のような体の修行もさることながら、大事なのは信心という心の修行なのだ。そう考えると御文章の「必ず如来の御たすけにあづかるものなり」の「必ず」の意味が理解出来る。

御文章の終わりに「わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏まうすべきなり」とある。ここが一番難しい所だ。私は真継伸彦氏の解釈が真を衝いていると考えるので、以下に転載させて頂く、<真継伸彦著「私の蓮如」筑摩書房(1981)より>

『私はここに、現代人にはわからなくなってしまった真宗信仰の、深い意味が隠されていると思います。当時のすさましい飢饉の時代に、真宗門徒もむろん大勢死んでいったことでしょう。蓮如は死んでゆく彼らにも、「阿弥陀如来に助けていただいたことのお礼を言いなさい」とすすめるのです。だから正しい真宗の行者たちは、餓死さえも阿弥陀如来のはからいだと信じて、礼を言いながら死んでいったのです。

常識では理解できないことではないでしょうか? しかし、私はそのような門徒たちの態度に、仏教の究極の境地と思われる、「ある開かれたもの」を想像するのです。ふつうの人間性なら、餓死する自分の運命を呪うのが当然です。自分を見殺しにする阿弥陀如来に何の慈悲があるものかとうらみ、信仰を捨ててしまうのが人情でしょう。あるいは、死の恐怖を忘れようとして懸命に、「助けてください、阿弥陀様」と祈りつづけるのが人情です。が、それは愚かな自分の命に執着する「閉ざされた態度」と言うべきです。死を目前にひかえてなお阿弥陀如来に感謝できるのは、このような我執を完全に捨てさった態度であって、それはまた、たとえば諸法無我といった、釈尊のサトリの境地に似通ったものだと私は思うのです。

真宗は現世利益信仰ではありません。すでに述べたように阿弥陀如来の慈悲というのは、私たち破戒者にそそがれる別世界からの慈悲です。如来は、命に苦しむ自分の信者たちを、現世では見殺しにするのです。実に非情な慈悲というべきです。にもかかわらず如来の全智全能を信じ、いっさいを如来のはからいだと信じて、仏恩を感謝しつづけるというのは、常人にできる行為ではありません。真宗はたいへん容易な信仰だといわれますが、このような究極の試練に自分か会ったとして、なお信仰を守りきれるかどうかを考えると、けっして容易な信仰ではありません。』

この様な見方は、究極的に心の持ち様として「天地のいのちに身をお任せする」という余語翆巌老師のお言葉と共振していると私は思う。老師の著書「去来のまま」の中にこんなくだりがある。『辯道ということは、何かを、何かにつぎ足して行くことではない。一切を放下する風光に住することである。自らの意志の力をも放下することである。本証のもよおす所、とあり、仏の方よりおこなわれてとあるように、尚また「坐禅儀」にあるように、心意識の運転をやめ念想観の測量をやめることである。かくてその風光は、真宗の安心と何か通ずるものを漂わせている。真宗と曹洞宗が日本仏教の両極に位して、外見上は共通点がないようであるが、この両極が一致しているように思われる』(余語翆巌著「去来のまま」より)

やれ他力だ自力だなどと力んでいるうちは、まだ物事の本質が分っていないということであろう。

余談だが、京都東山の知恩院と青蓮院との間に崇泰院という小さなお寺がひっそりと佇んでいる(写真)。門を入ると小さな古ぼけたお堂があり、庭もあるが草ぼうぼうで殆ど無住の荒れたお寺である。しかし、ここは大谷本願寺の跡であり、その昔、親鸞聖人が住んでおられたのであろう。京都で西本願寺や東本願寺と言えば人も知る巨刹で終日参詣人が絶えないが、この崇泰院を訪ねる人は殆ど見かけない。それだけに私はひとしお親しみを感じる。何度も訪ねたことがある。   

その昔、歎異抄の著者唯円(ゆいえん)坊ら一行がはるばる水戸から親鸞聖人のもとにやって来て、久々に聖人にお目にかかった、あの感激の再会の場面。そして聖人から「をのをの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。・・・」とお言葉を頂いたのはこんなみすぼらしいお堂であったのだろうかと想像すると、おもむきひとしおである。蓮如という人はこの地で生まれている。時代は室町中期、足利義政の世代と重なる。貧富の差は大きく庶民にとっては生きるのがとても苦しい時代だった。度々飢饉に見舞われ、加茂の河原には餓死した人の遺体が累々として異臭を放ち近寄り難い光景だったという記録がある。おそらく蓮如も何度もこんな場面を目にしたことであろう。それに応仁の乱である。これが切掛けとなって時代は弱肉強食の戦国時代へと移って行く。

親鸞聖人没後の約二百年の間、大谷本願寺はさびれた貧乏寺に過ぎなかったそうである。蓮如は住職存如の息子であるにも拘わらず継母との折り合いが悪く、四十三才になるまで部屋住みの不遇を囲っていた。しかし、住職の父が亡くなり蓮如が後を継ぐと、布教に蓮如独特の新風を入れ始める。この新住職の人柄と見識を慕って信徒の数は徐々に増え始め、やがてその活況を快く思わない比叡山が僧兵を繰り出して焼き打ちさせる。蓮如は命からがら都を脱出する。北越に逃れた蓮如は越前の吉崎に御坊を建て布教に努めるが、よほどその教えに魅力があったのであろう。たちまち門前市をなすほどに信徒が集まり、やがてここでも地元の守護大名富樫氏に追い立てられ、遂には今の大阪城の地に石山本願寺を開き八十五歳で生涯を閉じている。

「念仏さえ唱えれば、極楽往生出来る」と浄土真宗は教える。これが戦乱に明け暮れ明日の命も知れぬ当時の庶民に爆発的に受け入れられた。蓮如の御文章を読むと、前述したように極楽往生にはそれなりにきちんとたががはめられているのだが、文字も読めない、或は読もうともしない庶民の受け止め方は様々だったのであろう。「念仏さえ唱えれば、極楽往生出来るのだから、この世でどんな悪いことをしてもかまわない」と考える人や、一向一揆にはやる門徒衆も出てきた。蓮如は彼等の軽挙妄動を抑えるのに苦労したようだが、兎も角も清濁併せ飲んで浄土真宗本願寺を日本有数の仏教教団に育てたのはなんといっても蓮如であり、上人と呼ばれる由縁である。

私は越前の吉崎御坊にもお参りしたことがあるが、立地が入江に面した山の上にあり、真継氏の指摘通り攻めるに難く守るに易い天然の要害であることを確かめて印象深かった。石山本願寺に至っては、後に大阪城になるくらいであるから立地の戦略性は言うまでもない。蓮如没後のことではあるが、あの織田信長が攻めあぐねてついに朝廷に和議を頼んだことでも明らかだ。焼き打ちに遭った経験から寺の立地にいかに神経を使ったか、信仰がいかに命懸けであったか、そして、蓮如という人が世俗的にもいかに非凡な戦略眼の持ち主だったかが分る。

崇泰院の北隣、青蓮院の門前に見上げるような楠の巨木が美しい緑の葉を一杯に茂らせている(写真)。樹下の立て札によると、この樹は応仁の乱の大火を免れたとある。蓮如上人もこの樹の下をせわしなく通っておられたことであろうか。樹に聞いてみたい気がする。

               
(令和五年二月)

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