仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず|禅の道 藤田彦三郎|翠風だより 第171号 昭和48年(1973)5月発行

仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず|禅の道 藤田彦三郎

手足あり。合唱行歩にかけたる事あるべからず。仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず。人界の生は皆是れ器量なり。余の畜生等の性にては叶ふべからず。学道の人はただ明日を期することなかれ。今日今時ばかり佛に随って行じゆくべきなり。

解釈させていただきます。また道元禅師が云はれました。世間の人は多く「仏道を修行しようと云ふ気持ちはあるのですが、世は末法の世であり。人の素質も低下し劣っており。佛の御教え通りの修行には到底耐えられそうにありません。ただ自分の力に随ってやさしい方法に従って佛縁を結び、今度生まれ変わった時には佛の御教え通りに修行して悟りを開くことをのぞんでおります」と云って居りますが、しかし今自分が云ひたいのはこの言は全く間違って居る事である

仏教で正法像法末法の三時に区分し云ふ事は仏法に帰依させる仮の一つの手段ではあるが真実の仏法は決してそうではない。釈尊の教えに従って修行すれば今でも皆悟りが得られるのである。
釈尊が御在世の時の僧が必ずしも皆すぐれて立派であったのではない。思いもつかない世にも稀なあさましいあきれる程のひどい気持ちや修行能力の下劣な人もあったのである。釈尊が種々の戒法(いましめ)を分けて設けられたのは皆よくない人々や生まれつきの劣った素質を持った人々のためなのである。(この様にその時代々々に依り正像末の三時を分け人々が末法の世には修行能力の無い下劣であると云ふのは間違って居ると云はれました)

人々皆それぞれ仏法を信ずる能力は生まれながらにして備って居るのである。自分はその様な能力は無い下劣な者であると決して思ってはいけないのである。佛の御教えに従って一生懸命修行すればどんな人でも必ず悟りは得られるのである。人には心があるから善い悪いの分別は出来るであろうし又手足があるからには合掌をしたり又歩行には不足はないのである。それであるから佛の御教えを行なうにはそれで充分であって素質で区別する様な事はいけない事である。

人間界に生を受けたものは皆区別なく平等に仏法を信じ行ずる能力は備って居るのである。人間界を離れた畜生などの世界に生まれたものには出来ない事である。

仏道を修行する人は今からすぐ始めなくても明日からでも遅くないと明日をあてにしてはいけないのである。今日この瞬間のみと思って佛の御教えに随って油断なく修行する事が最も大切な事である。

翠風だより 第171号 昭和48年5月1日発行 禅の道 藤田彦三郎