春は枝頭にありて十分|御垂示 余語翠巌 ニュースレター第44号より

求道者(ぐどうしゃ)と言われる人が、最後はそんなことせんでもよかったんだなあということがよく分かると言ったという話がよくあります.馬鹿げた話だと思うが、ずうっとやってこなければ分からんというのだから、これまた始末が悪いのです.一応やってみなければ分からんのだけれども、どこまで行ってみても、もととちょっとも変っておらんということになるのです.それなら始めからやらんといた方がいいのにと思うが、そうもいかん。複雑怪奇なものです。

昔の漢詩に、春のはじめの頃に訪れてきた春をたずねようといってたずねまわったが、どこにもそれはなかった。けれども帰ってきてみたら、自分の家の庭に梅の花が咲いていたのに気がついた。春は枝頭にあってすでに十分という詩です。ちゃんとそこにあるのに、どこかへ探しにいくのです。みなそういう姿です。落着かないとみなそういうことになるのですね。


雪峰和尚と巌頭和尚の話かありますが、雪峰という和尚と巌頭という和尚が雪に降りこめられて或る村でどうにも動けなくなった。雪峰という和尚はひまがあると坐禅をしている。巌頭という和尚はひまがあるとグウスカ寝ている。はたからみると坐禅している方が立派でしょう。兄弟子の巌頭が「どうしてそんなに坐禅ばかりしておるのじゃ」と言うと、「坐禅でもしていなければ落着いておられん」といってじっとしていられないと言う。分かった者は寝ていればそれで済むのです。寝ている者と坐禅している者とを勤務評定すれば、坐禅している者の方が評定はよくなるのだけれども、寝ていた方がよっぽど立派です。あなた方もこんなところに来ないで寝ておった方がよろしい。


春は枝頭にあってすでに十分の心が分かれば、それが一番安楽です。どこにあっても至極の場所は現成のそのところにあるのです。そのことが戒法を保っていることになるのです。ちゃんと過不足なく整っている姿だと言われているのに、みな足りん足りんと言うわけです。何が足りないのか。要するに過不足なくここに現成している姿、一切のものがそうなのです。そこに落着けない間はうろうろまわっているより仕方がない。そのうろうろまわっている姿の方がけなげに見えるわけです。あの人は真面目じゃ、立派じゃ、一生懸命に修行してござると。そういうふうに落着かないから何かしておらんならんという間は安心というわけにはいきません。


安心という安らかな姿があれば何にもしなくていいのです。そうなっていることに気がつくことです。悟るということはそういうことです。悟りというものがあるわけではないのです。悟っても悟らんでも変らないことに気がつくのです。やっぱり気がついた方がいいだろうけれど、気がついても変るものではないのです。過不足なき姿がここにあるんだという安心があるだけです。そのことを戒というのです。それが仏の御姿だということになります求める心がなくなつた時に、そうじやつたかなと分かる。求め心がある問は、反対の方に向って歩いているわけです。求め心がやまった時が一番の安楽です。真実の自己を求めるなんて言って、あれは詐欺だな。よく参禅会などに、真実の自己にお目にか
かりましょうなんて書いてあります。そんなものはないもんじゃ。そういうものを求める気持ちがなくなった時は安楽です。これは仏作仏行だなんてやっているのは第二義、第三義です。ただ純粋にそれをやっていればよいのです。何々のためにするなんてことは第二義、第三義のことです。すべてどのようなことにも「ため」にというのはやめたらいい。

よく言う国のためになんていうのも立派そうに見えても、これもよくない。国が永遠であると思っている人がたくさんいるが、永遠というものがあるわけはないのです。国のために人を殺すなんていうことはもってのほかということになってくる。国なんていうものは、この先何万年か後にはなくなるでしょう。何万年も先のことを心配したってはじまらんと笑う人がいるが、しかしそういうことです。本当の道理というものを受けとっているとほんものが見えてくるのです。


余語翆巌著「禅の十戒」地湧社(一九九一)より抜粋