ウエルズの仏教観 平井満夫|翠風講ニュースレター第18号 平成21年(2009)1月発行

ウエルズの仏教観 平井満夫

H.G.ウエルズ[H.G.Wells(1866-1946)]と言えば英国の著名な歴史家で、その著書「世界史大系」(The Outline of History)はその代表作であるが、最近はあまり話題にならない様である。彼の歴史観はもう古いということであろうか。しかしこの大著は、人類の発生から現代(実際には執筆当時の第一次世界大戦直後)までの広大な歴史の流れを、一人で大掴みに描き切った超人的な歴史書と言えよう。初版が刊行されたのが1920年であるからそれなりに時代感覚の違いは割引いて読む必要はあるにしても、英国人といった狭い視野に囚われることなく地球人の目で骨太な歴史観が語られている。「木を見て森を見ない」という言葉があるが、彼の場合は木も森も見ているということを読む者に感じさせる。彼の歴史観は1948年の国連総会で採択された「人権宣言」に受継がれているといわれている。

実は、私の本棚には1921年2月版の原書がある。父の蔵書の中から大事に保管してきたもので、二巻から成り背表紙は紺の地に金文字で書かれており、ずっしりと重量感のある本である。もう紙も黄ばんで所々はがれそうになり、まるで古文書の様であるが、時々書棚から出しては読んでいる。挿絵も多く、テレビなどで見るよりも想像力をかきたててくれる。英語の勉強にもなっている。この本は当時アメリカで十年間に百万部売れたといわれている。

さてこの本の宗教の記述であるが、特定の宗教に偏しない見方で、仏教も、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も同じ目線でその歴史の流れを見ている。このスケールの大きな歴史家ウエルズが釈迦の教えと、その後の仏教の広がりをどの様に書いているか、興味を持たれる方もおられるかと思い、私なりの紹介をしてみたい。

釈迦の教えについてのウエルズの理解は大よそ次の様である。「人間の苦は自分の欲望に対するこだわりから来る。これを克服しない限り苦から逃れられないというもので、人間の心の平和(安心)についての完璧な分析と言える。(中略)人間は自我を捨てて、より大きなものに身を投げ入れないと、平和も幸福も無いというのが歴史の教訓であるが、釈迦の教えはこの教訓に完全に一致している。およそこの世でその名に値するあらゆる宗教、哲学は、自己を捨てて、より大きなものに身を投げ入れることの重要性を説いている。キリスト教の聖書には、「身を捨ててこそ救われる」という言葉があるが、釈迦はキリストよりも実に六世紀も前に、このことを説いている。(中略)釈迦の教えは、行(ぎょう)の宗教であって、服従や犠牲(いけにえ)を強いる宗教ではない。本来、寺もなければ僧もない宗教である。当時のインドで信じられていた様々な神の存在については肯定も否定もしていない。関心の外だったのだ。」

この様にウエルズは、釈迦の教えの本質を鋭く捉えている。余談だが、釈迦の教えが本来、寺もなければ僧もない宗教であるとすると、俗にあらず、沙門にあらずと、寺にも住まずあばら家に起居した良寛の生き様は釈迦の教えの実践だったかと思えてくる。

さて一方においてウエルズは、仏教の問題点についても指摘している。その第一は、釈迦の教えが自我からの開放という単純ではあるが難解であるが故に、彼の死後直ちにあらゆる種類の誤解や曲解が生じたこと。なにしろ文字の無かった時代である。総ては口から口への所謂口コミで伝えられた。例えば八正道などの様に序数にからめた教えが多く出て来るのは、覚えやすいようにした方便だとも指摘している。仏教とはそういう誤解や曲解をもひっくるめて形成されていった宗教なのだ。

仏教では例えば、自我からの開放という教えを現実からの逃避と解釈して隠遁生活に入るという風に現実世界から逃げてしまう口実になりやすかったこと。更に、死後に魂が生き返るということは本来釈迦の教えに矛盾するにも拘らず、当時のブラマン教(後のヒンドゥー教)に飲み込まれて、仏教が恰も来世の教えの様になって行ったこと。外面的形式に流れ枝葉がつけられて元の教えとは似ても似つかぬ形に変質して行ったことなどを挙げている。例として、当時のダライラマが支配するチベット仏教の因習的な偶像崇拝をあげ、仮に釈迦が現在のチベットに来たとしたら、どこを探しても私の教えは見当たらないと言うだろうとも書いている。一口に仏教と言い、経典と言っても何が正しいか正しくないかの判断は自分でするしかないということであろうか。

また、釈迦の教えは内省的な半面、進歩に対するビジョンがなく、将来の指針に欠けていたと指摘している。これに対して、ユダヤ教から派生したキリスト教や、イスラム教に於いては、仏教ほどの内省的な面には欠けているが、未来の約束された世界に導いて行く指導性に富んでいるとしている。要するに、仏教には近代文明をリードするにふさわしいビジョンがなかったと言っている。ウエルズといえども、この本を書いた当時は機械文明の将来にかなり楽観的であったから、キリスト教にリードされてきた西欧文明の進歩に依拠する世界観の範疇からは抜け出せなかったのかもしれない。

しかし一方に於いて、「釈迦の教えはいつの日か西欧の科学との接触によって改造され純化されて、人類の将来の指針として大きな役割を果たすかもしれない」とも述べている。これはどういう意図で書かれたものであろうか。当時仏教国で後進国であった中国、朝鮮、日本などの近代化による台頭を意識したのであろうか。それとも西欧文明の将来に対する漠然とした不安から仏教に一抹の期待を寄せていたのであろうか。いずれにしても、彼が第二次大戦後の最晩年に書いた著書では、原子爆弾という大量破壊兵器を手にしても尚、覇権争いに明け暮れる国際世界の現実に幻滅したウエルズは、以前とは一転して人類の将来について悲観的なことを書いている。恐竜が動物本能の欲するままに強く大きくなり過ぎた結果、それがために絶滅したことを例に、「自然の法則は、恐竜に対した以上に人類に贔屓(ひいき)すると見るべき理由は全くない」と。

近代文明による環境破壊や、経済成長の限界など、ウエルズの存命中には見られなかった現象が出始めた現代に於いて、「足るを知る」という釈迦の教えに通じる思想が果たして人類の指導原理にならないものであろうか。ウエルズに聞いてみたい気がするが、無論聞ける訳はなく、それこそ我々自身が考えるべき課題なのであろう。

平成二十年十二月

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