下天の夢 安土城跡を訪ねて  平井満夫

時々私はぶらりと一人で小さな旅に出かける。なるべくあまり人の行かない所を選んで気の向くままに歩きまわるのが私の好みだ。呆け老人の徘徊かと疑われても仕方なかろうかと思っている。鉄道の旅、特にローカル線の一人旅が好きで、がらすきのローカル列車なんかに乗るとワクワクする。

最近の話で、と言っても昨年の三月のある日だが、安土城跡を訪ねたのでその印象記を書いてみたい。言わずと知れた織田信長が天正七年(1579)に築いた最後の城である。どんな所か、かねがね自分の目で見てみたかった。新幹線で米原まで行き、在来線に乗り換えて京都方面に向かう。がらすきである。彦根を過ぎて乗ること小一時間、安土という駅で下りる。思いのほかに田舎だ。人影はまばら。駅前の自転車屋さんに貸しロッカーがあったので手荷物を預けてぶらぶら歩きだした。幸い雲一つない好天気だ。安土城跡は意外に遠い。田んぼの中の農道を琵琶湖方面に歩いて行くと安土城跡らしい山が遠くに見えてきた。三、四十分は歩いたろうか。城跡の麓に着く。このあたり、その昔は「楽市楽座」で賑わっていたのであろうが、今は田んぼに農家が点在するのみ。その面影は全く見られない。お土産屋くらいはあるのかと思っていたが、小さな無人小屋の休憩所とトイレがあるだけだ。今どき信長に興味のある人は少ないとみえる。大手門跡に受付の人が一人、ここで入場料を払う。山の上に休憩所はありますかと聞くと、いや何もありませんと素っ気ない。大手門跡から大手道を登り始める。山頂へ向かって一直線の石段だ。

安土城は琵琶湖東岸の安土山という標高二百米ほどの山に築かれた城である。山としては高くはないが相当な急勾配だ。しかも石段たるや段差が大きく石積みのステップはごつごつして甚だ登りにくい。それもそうだろう。ここを登って来る敵になるべく時間をかけさせようということだろうと納得しながら何百段と(勘定はしなかったが)登って行く。やがて黒金門跡に達すると立派な石組みの城壁が目に入る。こんな大きな石をどうやって運び上げたのだろうとまず感嘆する。やがて山頂に達すると北西の方向に素晴らしい眺めが広がる。但し琵琶湖が眼下に見えるかと思いきや、湖はかなり遠方にしか見えない。眼下の平野には田んぼが広がっている。築城当時は湖の入江がすぐ城の下にまで来ていたのだが、後年に埋立てられたらしい。

山頂には天主閣の礎石が残っている。天主閣は本能寺の変の直後に炎上してしまった。明智光秀が焼いたという説もあるが、本当のところは誰が火を放ったか分かっていないそうである。信長はここに人々があっと驚くような豪壮華麗な大天主閣を築いた。琵琶湖を睥睨する存在である。山頂に立ってみると信長がここに城を築いた戦略が実感として理解できる。信長は琵琶湖の海路と東海道、中山道の陸路を制して京の都の喉元を押さえようとしたのだ。

ところで、ここに木造の大天主閣を築いて防火対策はどうするつもりだったのだろうとふと思った。貯水池も無い、生活用水くらいは近くの井戸から運んで来たのであろうが、火事には間に合わない。現代のような消火設備がある訳はない。一旦火が出たらもうお手上げである。誰にでも容易に分かることだが一体信長はどう考えていたのだろう。火災のリスクよりも自身の偉容を示すデモンストレーションの意味合いを重んじたのであろう。それにしてもこの天主閣が炎上した時の火の手はさぞかし凄まじかったであろう。

驚いたことにこの天主閣の近くにありながら、焼けずに無傷で残っている木造建築が実は在るのである。それは信長が天主閣の西隣りに建立した摠見寺(そうけんじ)という仏教寺院の三重の塔だ。(写真)天主閣から少し下って五十米とは離れていないだろう。おそらく炎上の際西風で風上にあったので助かったのであろう。それにしてもよく焼けなかったものだ。三重の塔のすぐ隣にあった本堂はその後の火事で焼失したそうだ。三重の塔から石段を下った所にある仁王門もそのままの形で残っている。信長の死後、人が住まなくなって四百年以上もたって、よくもまあこの山の上でほったらかしで無傷で残っていたものだ。奇跡的としか言い様がない。現在ではこの仁王門と三重の塔が重要文化財になっているそうだ。

意外に思ったのは摠見寺の大きさである。これは城中の祈祷所といった半端なものではない。礎石の跡から本堂は相当大きな建物だったと思われる。更に仁王門や三重の塔など七堂伽藍を擁する本格的な仏教寺院であったことがよく分かる。これ等の伽藍はあちこちの寺から移築したものらしい。本来は仁王門から入って本堂、三重の塔を経て天主閣に至るのだろうが、私は逆コースを辿ったので仁王門をくぐって外に出た。左右の仁王様を仰ぐ。訪ねる人も少なく思いなしか仁王様も淋しそうだった。ゆっくりと山を下り、もと来た大手門の受付で御朱印を頂く。「天下布武 摠見寺」とあった。

安土城摠見寺の三重の塔 石段の上が焼失した本堂の跡。

本堂の屋根の向う側に天主閣が見えた筈である。

さて、安土城跡から東に歩いて約十五分くらいのところに安土城考古博物館がある。ここの別館「信長の館」は大きな体育館のような建物で内部に安土城天主閣の最上部六層目と七層目を内部の障壁画と共に原寸大で復元して展示されている。天主閣の中に入ることも出来る。これは誠に絢爛豪華なもので「凄い」の一語、一見に値する。1992年スペイン・セビリアの万国博にこれを展示したところ大変な評判になったそうである。

どうしてこの様な原寸大復元が可能になったのだろうか。信長は城の屏風絵を絵師の狩野永徳に描かせ、天正遣欧使節団に託してローマ法王グレゴリオ十三世に献上している。ところがこの絵は同法王の死後いつしか行方が分からなくなってしまい今日に至っている。従ってこの天主閣は長い間幻の存在だった。

ところがドラマは昭和四十四年(1969)に始まった。日本建築の古典を調べておられた名古屋工大の内藤昌(あきら)教授(当時)が、ある時東京の二子多摩川にある静嘉堂という古文書博物館を訪ねて、ふと「天守指図」という巻物の古文書を見付けられたのである。最初はどこの図面か分からなかったのだが、その道の専門家と検討された結果これは安土城天主閣の平面図ではないかということになり、現地で礎石を調査した結果天守指図の図面と位置がぴったり合ったのである。これから現地調査は急速に進み、信長関連の文献と合わせてその全容が明らかになったのだ。主な文献としては信長の祐筆だった太田牛一の「信長公記」や、安土城竣工時に信長に招かれ、城内の一部始終を詳細にリポートしたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などがある。これらをもとにコンピューターグラフィック化され、上層部については前述のように原寸大で復元されているという訳である。

この復元天主閣の六層目の外形は八角でまるで法隆寺の夢殿がはめこまれたように見える。内部の黄金の障壁画は釈迦の説法図を正面に据え仏教の世界観による理想郷が現出されている。ここで信長は一人静かに釈迦に正対して束の間の心の安らぎ、平和を得たのかもしれない。

最上部七層目はまばゆいばかりの金色の四角い櫓である。四方の欄干と外壁は全て金箔が施されている。内部には黄金の障壁画、恰も金閣寺を連想させる。とても城とは思えない。ここに客を案内して琵琶湖を睥睨した信長の得意顔が目に浮かんでくるようだ。

天主閣全体の内部構造は極めて特異な設計でサプライズは至る所にある。例えば一層目から四層目まで中心部が吹き抜けになっている。そして三層目には信長が好んで舞う能の舞台がせり出していて周囲の座敷から見られるようになっている。ドームとも見まがうような斬新な設計を信長はどこから発想したのだろうか。おそらく当時渡来のキリスト教宣教師たちが日本で建て始めた天主堂からヒントを得たのではないかと言われているが、良いと思ったものはすぐに取り入れる進取の気性、独創的な発想と芸術的センスの素晴らしさには感嘆するばかりである。

信長の才能もさることながら、更に驚かされるのは当時の日本の築城技術である。赤松の生い茂った自然の安土山を切り開いて安土城全体を僅か三年で完成させたというから驚くほかは無い。果たして今、日本の大手ゼネコンが現代の技術の粋を尽くして作ったとして三年で出来るだろうか。

信長の肖像 (天童市三宝寺蔵)
信長の肖像 (天童市三宝寺蔵)

ここでもう一つ興味あるものを見た。信長の肖像画である。(写真)当時の有名な絵師が描いた信長の肖像画はいくつかあるが、いずれも想像や脚色が入って実物のイメージが浮かんでこない。これは外国人宣教師が描いたもので実物に最も近いと言われている。

そろそろ日も西に傾いてきた。博物館を後にして再び田んぼの中の農道を歩いてJR安土駅に戻ってきた。さすがに疲れを覚えた。歩数計を見たら丁度二万歩だった。

今回安土城跡を見学して信長という人のあまり知られていない一面を垣間見たような気がする。信長といえば戦国の世に覇を唱えた好戦的な武将で、比叡山延暦寺の焼き討ちをやったり、伊勢長島の一向一揆では二万人を虐殺したりと、唯物的な無神論者というのが今までのイメージだった。しかし彼は心の底では釈迦の教えを信じる仏教信者であり、平和を希求していたのではなかろうか。そうでなければ天主閣に描かせた釈迦の説法図や摠見寺の偉容が理解出来ない。日本の築城史の中であの様な七堂伽藍を備えた仏教寺院を城郭内に作ったのは後にも先にも信長だけだそうである。

思うに彼の理想は「天下布武」と「楽市楽座」に代表されるのではないだろうか。余語老師はよく「無限のものは有限の形でしか現れる所がない」とおっしゃった。信長にとっては安土こそが彼の「無限のもの」だったのではないだろうか。

当時にタイムスリップして、ある旅人が安土を訪ねてみたとしよう。彼はまず楽市楽座の城下町で人々の賑わいに目を見張る。楽市楽座とは今で言う経済特区のことだ。「座」というのは組合組織であるが、当時は商業、工業などどんな経済活動をするにも「座」に入らないと仕事が出来なかった。安土ではそれを撤廃して誰でも自由に商売が出来るようにしたのである。

さて件の旅人は次にいよいよ安土城を見学する。南側正面の大手門は客人用であって一般の人間は西側の通用門である百々橋口からしか入れない。山道を上って摠見寺の仁王門に至る。他に道はない。どんな人でも先ず摠見寺に参拝しなければ天主閣に近づけない仕組みになっている。仁王門をくぐって急な石段を上って行くと(写真の様に)正面に巨大な本堂、右手に三重の塔が見えてくる。本堂で仏を拝んで遥か上を見上げると天主閣が燦然とそびえている。信長様の居城は仏様の更に上にあることを知らしめる信長の演出である。その場にもし今様のガイドがいればこう言うだろう「あの天主閣を御覧ください。下から数えて六層目、朱色の柱と白壁の八角形の階の中には正面に金色の釈迦説法図があり宗教の層を現わしています。そしてその上のてっぺんには金色の四角い櫓が見えますね。あそこは信長様が天下を睥睨される政治の層ということになります」と。ここでも信長は明らかに宗教は政治の下にあることを万人に知らしめているのだ。

信長が示したかったのは、宗教は政治の下にあるという「政教分離」である。彼は仏教を核とした宗教を否定していた訳ではない。彼が否定したのは「王法・仏法」即ち政教一致の思想なのだ。「王法・仏法」とは仏法があってはじめて王法が栄えるという日本では律令時代から始まってこの時代まで支配してきた観念である。僧侶という階級が奈良時代に生まれ、これが朝廷、公家、武家と結託して隠然たる権力を振るっていたのである。信長の時代、その頂点にあったのが比叡山延暦寺であり、浄土真宗石山(今の大阪城)本願寺であった。

信長に胸の内を語らしてみるとこうなるだろうか。「宗教はあってよろしい。仏教もキリスト教も信じたければ信じなさい。人の心に安らぎを与える宗教は人間には無くてはならないものだ。かく言う儂(わし)も釈迦の教えを信じている。だからこそこの摠見寺を建てたのだ。しかし、坊主や宣教師が政治に介入することは絶対に許さん。宗教は宗教の分野にとどまらせ、政治は大名が行うという政教分離を断行しなければ、この国の発展は無い。しかもその大名の頂点に立つのはこの儂だ。これが儂の言う「天下布武」だ。皆の者分かったか」と。

ちなみに信長在世の頃ヨーロッパではローマ法王を頂点とするカトリック教による政教一致が徹底しており、スペインでは魔女狩りと称する異教徒弾圧で十年間に百万人が殺戮されたという時代だったのである。信長の政教分離のビジョンは実にヨーロッパを先立つこと百年であった。私は先年上杉謙信の居城春日山を訪れて、この欄に「第一義」と題して雑文を書いた。こうやって春日山と安土を比べてみると謙信と信長の世界観の違いがよく分かる。謙信は中世の人、信長は近世の人だ。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」

信長はこの幸若舞の敦盛の謡を好んで舞ったという。この謡には仏教的無常観が込められている。おそらく安土城天主閣の能舞台でも並み居る武将を前にしてこの舞を披露したことであろう。しかしながら、信長が安土に居を定めてから本能寺で命を落とすまで三年とかからなかった。はかないといえばあまりにもはかない運命、正に安土は下天の夢だったのだ。

(平成三十年一月)

参考文献 「信長の夢『安土城』発掘」NHK出版/津本 陽著「信長私記」新潮文庫/安土城考古博物館資料