寄稿文 道元禅師のプロフィール 平井満男夫

今年二月に始まったロシヤの軍事侵略により廃墟と化したウクライナの街の惨状。連日報道されるテレビ画面は思わず目を覆いたくなるようなむごたらしいものだった。人間に慈悲の心はないものか。慈悲を重んじる仏教徒ならこんなむごたらしい戦争はしないのではないかと思いたくもなるが、実際はそんなものではないらしい。現に仏教国といわれるミャンマーでも苛烈な残虐行為が行なわれている。仏教を国の基本に据え、上は支配者から国民一人一人が仏教を信じ慈悲の心を持てば、きっと平和な国になるだろうと仏教立国の理想を夢見るのは仏教を信仰する者にとっては至極自然なことで、六世紀に仏教が日本に伝来して以来、聖徳太子をはじめ少なからぬ人達がこの理想を志した。法隆寺や東大寺を訪れると、創建された当時の聖徳太子や聖武天皇の仏教立国の情熱が現代の我々にも伝わって来る。しかしながら現実には、仏教はむしろ政治権力を奪取するための道具に利用されたり、政権と結びついた仏教教団が腐敗したりと、その理想とはほど遠い展開が繰り返されたのが日本の歴史である。

元々、釈迦が問題にしたのは普遍的な人間の心であって、どこの国の人間かなどという、およそ国家という概念は思惟対象の外だったと思われる。篠山晴生著「奈良の都」(吉川弘文館2010)には「釈迦がインドで創始した仏教は、元来国家とは無縁であり、仏教教団を中心に、民衆から民衆へとその信仰が広まったものである。しかし、既に早く紀元前三世紀、マウリヤ王朝のアショカ王が仏教をあつく保護し、国家の保護を得て仏教が興隆するに及んで仏教と国家の結びつきが生まれ、仏教教団の側からも「金光明経」のように、仏教を保護する国王を賛美する王法仏法相即の思想が生まれていた」という記述がある。日本における仏教立国の思想の成り立ちがこれで理解出来る。

実は道元禅師(1200―1253)も仏教立国の理想を志した一人だったのだ。今回はこのあまり一般に語られていない道元禅師の一面に焦点を当ててみたい。道元禅師の生涯については数多の伝記があるし映画化もされている。私もそれらを丹念に調べた訳ではないが、学問的には水野弥穂子(やおこ)氏(1921―2010)がその著書「道元禅師の人間像」(岩波書店一九九九年刊)で展開されている論文(本稿ではこれを水野論文と呼ぶことにする)が最も正鵠を射ていると私は思っている。水野論文についてはこのニュースレターでも拙稿「道元禅師と政治権力」と「深草興聖寺の夢の跡」で詳しく紹介したが、今回は少し違った角度から取り上げて道元禅師のプロフィールを見てみたい。

それにはまず復習の意味で、禅師の中国からの帰国後の軌跡について水野論文の要約から入ることにしよう。1227年道元禅師二十八歳の折り、中国宋の天童山での修行を終えて師匠の如浄禅師住職にお別れの挨拶をされた時、如浄は禅師に「もうお前には伝えるべきものはすべて伝えた」として次の餞別の言葉を送ったとされる。禅師の伝記には二説あって、一説には「早く本国に帰り、祖道(菩薩達磨尊者の教え)を弘通(ぐずう)しなさい」とのみあるもの。他の一説は、更に付け加えて「帰国の後は、国王大臣に近づかず、深山窮谷(しんざんきゅうこく)に住んで真の仏法を伝えなさい」と言われたとされる。

水野論文は、如浄の餞別の言葉は「祖道を弘通しなさい」だけであって、「国王大臣に近づかず、深山窮谷」云々は後世の伝記が付け足したものだということ。更に端的に言うと、永平寺は禅師帰国後の第一の目的ではなく、第一の目的は深草の興聖寺にあったということ。永平寺は興聖寺での活動が挫折したためにやむなく取った第二の選択肢であったということである。その根拠の一つとして、水野論文では弁道話での道元禅師の記述を挙げている。禅師が帰国して間もなく書かれた弁道話には「国家に真実の仏法弘通すれば、諸仏諸天ひまなく衛護するがゆえに王化(天子の治世)太平なり。聖化(聖天子の治世)太平なれば、仏法そのちからをうるものなり」と述べられている。

二つ目の根拠としては、禅師の十年におよぶ興聖寺での活動と、その後突如として行なわれた北陸行きである。少し長くなるが以下に水野論文を要約する。
京都に戻った道元禅師は、日本国に正伝の仏法を伝えるべく活動を始めたが、深草の地に道場を建てるのに六年という月日を要している。これは一つには資金集めだったであろう。禅師の持っていた荘園は入宋の費用のために処分されたであろうから、殆ど無一文から始めなくてはならず、勧進の苦労があったと思われる。しかし、もっと大きな問題は比叡山延暦寺からの圧迫であったらしい。しかし、ともかくも天福元年(1233)深草に興聖寺の建立が実現した。その後伽藍も徐々に拡充され、弟子も懐奘をはじめ多くの弟子が参入し仁治二年(1241)禅師四十二歳の頃には興聖僧堂は五十人を擁する大叢林となった。しかし、比叡山の妨害は執拗に続いていたのである。この間に禅師は王勅を得るべく朝廷に対して「護国正法義」を提出している。しかし、これは比叡山の逆鱗に触れ朝廷により却下されている。禅師に振りかかる法難は何時やって来るかも分からない。興聖寺に住すること十年余、ようやく禅寺として充実し始めた頃ではあったが、もはや一刻の猶予も許されない。そこで、興聖寺を捨てて急遽脱出が敢行されたのである。これには信徒の一人波多野義重の薦めがあったらしい。彼の所領である北越の山中へと、禅師一行が秘かに都を脱出したのは寛元元年(1243)夏のことだった。脱出が無事に行われたについては、波多野勢の警護に負うところ大であったであろう。禅師一行が落ち着いた先は越前の山中、吉峰寺という無住の古寺で、ここで厳しい酷寒の冬を二度も耐えなければならなかった。このことをみても、脱出がいかに切羽詰まった行動であったかが理解できる。決して長年に亘って計画されたものではなかったのだ。越前に移ってから二年後、漸く大仏寺の建立が始まり、これが後に永平寺と改名され、ここに文字通り「国王大臣に近づかず、深山窮谷」に住することになった訳である。以上が禅師が永平寺に落ち着かれるまでの水野論文による経緯である。もし「国王大臣に近づかず、深山窮谷」の永平寺が帰国当初からの目的であったとすれば、禅師の北陸行はあまりにも突然過ぎて不自然だと指摘されている。もっとも、水野論文の最期は、経緯はどうであれ結局は北越の山中に逃れて、純粋の仏法を千年の後に伝えることに専念されたのであるから永平寺という禅師の選択は正しかったのではないかと結ばれている。

私は水野論文を読んだ時、次のように考えた。深草興聖寺の跡を見れば禅師の構想がどのようなものであったかおおよそ見当はつくのではないかと。つまり、もし帰国当初の目的が永平寺のような「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住する」にあったのなら、興聖寺はそのワンステップ前の寺であるから、あまり資金をかけない仮住まい的のものだろう。逆に興聖寺が本格的な大寺院の可能性を秘めた寺であったとすれば、祖道を弘通し、且つ王化太平による仏教立国のビジョンを実現する拠点とする狙いがあったと見るべきだろうと。そこで私は京都の深草に興聖寺の跡を訪ねてみた。2016年5月のことである。

詳しくは拙稿「深草興聖寺の夢の跡」に譲るが、私が訪ねたのは昔深草興聖寺がここにあったという深草山宝塔寺(しんそうざんほうとうじ)という日蓮宗の寺である。興聖寺の伽藍は応仁の乱で焼失してしまい、今は跡形もない。従って、宝塔寺の境内で在りし日の姿に想像を巡らすしか方法がない。(ちなみに、現在宇治にある興聖寺は江戸時代に建てられたもので、参考にはならない)目指す宝塔寺は京都伏見稲荷のすぐ南にあり、稲葉山を背にして総門から参道、仁王門に続いて本堂があり、現在の伽藍はそれほど大きなものではなかった(写真)。
しかし、立地的には伽藍を拡張する余地は十分にあり、京都の他の大刹に勝るとも劣らない大寺院が建つ条件は揃っていると見た。それもその筈、元々この地は関白藤原基経が開いた極楽寺という巨刹の跡地だそうである。当時の寺の立地とすれば一等地であろう。禅師が仮住まいのためにこのような立派な場所を選ばれる筈がないと思った。宝塔寺仁王門私は更に想像をふくらませた。禅師は中国に行かれる前、秘かに一つ夢を抱いておられたのではないかと。それは、「今の日本の混乱の原因は仏教教団が真の仏教を伝えていないからだ。中国で真実の仏法を学んだら、それを日本に持ち帰り、王化太平、仏教立国の平和国家にして戦乱の日本を救いたい」というものだと。確かに禅師の中国留学の目的は「本来本法性天然自性身」についての疑問、即ち、本来仏であるなら、本来のままでいい筈なのに、諸仏は何故更に発心して修行するのかという疑問に答えを見出すことにあったということは禅師ご自身弁道話で明かにしておられる。しかし、文書では残っていないが、中国で学んだ真実の仏法で戦乱の日本を救いたいという救国の夢も秘めておられたとしても不思議ではないと思う。そう考えられる客観的要素は十分に存在した。

禅師が中国宋へ旅立たれる直前には承久(じょうきゅう)の乱があった。後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げたが、結局幕府軍に鎮圧され上皇は配流された。武家勢力台頭によって公家勢力の衰退が決定的となった歴史的事件である。戦乱の世は平安時代末期の源平の争いから承久の乱に至るまで、かれこれ半世紀以上に亘って続いていた。民衆は塗炭の苦しみに喘いでいた。このような世相に禅師が無関心でおられたとは思えない。禅師は関白藤原基房の孫に当たる。出家された身とは言え、関白家の御曹司として、また公家勢力の将来のリーダーとして、なんとかこの国を真の仏教の力で救いたいと思われるのはむしろ当然なことではないだろうか。たとえ如浄禅師から道元禅師への餞別の言葉が「国王大臣に近づかず、深山窮谷云々」であったとしても禅師の選択は興聖寺にあったであろうと私は推察する。

さて一方で、永平寺のホームページでは「永平寺と道元禅師」の項で中国から帰国後の道元禅師の略歴について次のように記述されている。
「道元さまが日本に帰って初めて記されたのが「普勧坐禅儀」です。それまでの坐禅のあり方や、作法などを正し、お釈迦さまから代々伝わる正伝の坐禅を示されたのです。」のちには京都の深草に興聖寺を開創し、「正法眼蔵」「現成公案」「典座教訓」など多くのみ教えを後世に残されました。時が過ぎ、道元さまが四十三才の頃、俗弟子にあたる波多野義重公の招きにより、越前の地に赴きます。翌年道元さまは大仏寺を開き、二年後に「永平寺」と改称します。如淨禅師の教えに従い、たとえ一人でも正しいみ仏の教えを伝え行ずる者を育てようと身心をつくされました」禅師の北陸行はいかにも事も無げに行なわれたかのような文章である。何故に興聖寺を去られたのかの説明も全くない。比叡山による圧迫などには一切触れられていない。今更比叡山と事を構えたくはないとの配慮かとも感じられる。どうも興聖寺のことはあまり触れたくないのではないかとの印象を受ける。水野論文は無視された形である。また、永平寺はあたかも禅師御自身が開かれた寺とも受け取れるように書かれているが、実は永平寺は波多野氏の菩提寺であり、禅師はその初代住職なのである。興聖寺と永平寺では禅師の立場は異なっているのだ。これも水野論文による指摘であるが、分かりやすく現代の会社組織で喩えると、禅師の立場は興聖寺では創業者兼オーナー兼初代社長に相当するが、永平寺では初代社長ではあるがオーナーは波多野義重ということなのだ。更に水野論文には次のような指摘もある。禅師が晩年に鎌倉に下向された際、時の執権北条時頼から鎌倉に寺を開いてくれないかという要請があったが、それは丁寧にお断りして、幕府権力に媚びることの無かった禅師の姿勢が専ら美談として後世に語られているが、元々禅師の理想はどこまでも「王勅」による叢林の建立であって、鎌倉の武士階級を相手にする気はさらさらなかったのだ。それどころか公家の頂点に生まれ育った禅師として武家の専制は我慢のならないものであった筈であると。

曹洞宗は道元禅師が始められたのではなく、禅師の没後に生まれた仏教教団である。宗門では道元禅師のイメージを国家権力に近づかず、世間の雑音には耳を貸さず、超然とした姿で示したいように受け取れるのだが、私にはそのようなイメージが出来る前の禅師の人間像がどんなものだったかに興味があった。禅師の王化太平のビジョンは、自分が大僧正になって政権を牛耳ろうなどという政治的野心から出たものではなく、真の仏法の力で国と民衆を救おうという純粋なものであったから、なんら禅師のイメージを汚すようなものではないし、むしろそこに禅師の人間的な魅力を私は感じるのだが・・・。
禅師が自らの手で創建し、十年を経てようやく禅寺として充実し始めてきた興聖寺を捨てて都を去るについてはさぞかし断腸の思いをされたであろう。しかし、王化太平仏教立国の困難さを身を以て体験された禅師は、北陸の地に落ち着かれてからは、その夢をもはやきっぱりと捨て去り、永平寺に於いて「国王大臣に近づかず、深山窮谷に住して祖道を弘通する」ことに専念され、結果として師如浄禅師の後を追われたのだと推察する。

以上、私が捉えている道元禅師のイメージは、一般のそれとは若干異なることを、興聖寺時代に焦点をあてて書いてみた。大筋は水野論文に依拠したが、自分の想像力も加味している。当たっているかどうかは分からない。歴史探究の醍醐味は歴史の表に出てこない裏の部分を自分の想像で繋いで真実に迫るところにあると私は思う。想像といってもある程度の蓋然性がないとウソ物語になってしまう。それはそれで小説にはなるかもしれないが、私の領域ではない。今更こんなテーマの議論をして何になるのだと問われても、歴史的好奇心という以外に別段答えを持ち合わせている訳ではない。
(令和四年八月)