禅の道 藤田 彦三郎

 第三十五号    四六・六・一

(歎異抄)第二章

「各々十余国の境をこえて身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふおんこころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文(ほうもん)等をも知りたるらんと、こころにくくおぼしめしてはんべらば、おおきなるあやまりなり。もししからば南都(なんと)、北嶺(ほくれい)にも、ゆゆしき学匠たちおほく座(おわ)せられてさふらふなれば、かの人々にも遭いたてまつりて、往生の要(かなめ)よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとの仰せをかふむりて、信ずるほかに別の仔細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また地獄にをつべき業(ごう)にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ、法然上人にすかせまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。自餘の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりて、といふ後悔もさふらはめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

弥陀の本願誠におわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説誠におはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

法然の仰せまことならば、親鸞のまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。せんずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らい(おんはからい)なりと云々」

右の解釈は次号に致します。

(よく他力本願と云ふ言葉を使いますが誤解されやすいので書きますと、他力本願とは阿弥陀仏の本願の救い即ち一切のものを救済しないでおかないといふ阿弥陀仏に身も心も投げ入れると仏の力により救はれる事を言っているので他人や他国の力を借りて自分は努力しないで暮らして行こうと云ふのではありません。阿弥陀仏の本願は無量寿経にあり仏の救済の願が四十八あり、その内で根本となるのが第十八の願でこれを特に「本願」と云っております)

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第三十六号    四六・七・一

今年もお盆即ち盂蘭盆(うらぼん)の月となりました。新暦と旧暦で行ふ月は異なりますが、お盆の行事が十五日を中心にして全国的に行はれます。お盆は先祖、親の恩並びに社会の恩に感謝し自分の欲ばかりに走ってはいけないと云ふ行事であります。お盆の夜、静かに御灯明をともして家族皆様で先祖の御霊前に端坐合掌致しませう。

歎異抄の解釈をさせて頂きます。

関東から十余か国(現今では県です)の山河を雨、風をいとわず幾日もかかって越え、いのちがけで京都まで訪ねて来たこころざしは信心について色々の分からないことを聞きたく思ってはるばる来たお弟子の方々に対する親鸞聖人のお答で御座います。

最初の「身命をかへりみずして」とありますがこの命がけで関東より京都まで聞きに行かなければならない程お弟子達の心持ちに何か念仏に対して重大な疑義があった事と思はれます。関東から京都まで行くのには昔は交通が不便で大変な事であったろうと思はれますが現今は新幹線で京都まで三時間位、東名名神高速道路で行きましても六時間位で行かれます。将来はまだまだ早くなる事と思はれます。しかし交通がいくら便利になっても交通事故で又突然の出来事で何時死があるか分かりません。只、そんな事を意識しないで往来して居るだけです。本当は一瞬一瞬が命がけと云ふ事になりませうか。

何を命がけで聞きに来られたかといいますと、「ひとえに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」往生極楽のみちであります。問題は往生極楽のみちで御座います。往生極楽は極楽にゆき生まれる事で生きて居る只今と死んでからの極楽と二通りに考えたいと思います。

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第三十七号    四六・七・一

生きて居る只今の極楽が分かれば死んでからの極楽も解決出来るかと思はれます。逆に死の問題が解決されれば生きて居る問題も解決されるかと存じます。

お互い吾々は生きて居る間一生懸命働き親子、夫婦、兄弟等が一緒に毎日仲良く健康で楽しく暮らせていただいて居る感謝の生活が出来る事が一番幸福で皆が望む處ではないでせうか。それが自分自身の最大問題の死に直面したり、健康を害したり、親に死なれたり,可愛い子供に先立たれたり、いとしい人に死に別れ等数えれば無限のなやみ、苦しみ、悲しみがあるのが世の中でこの充たされない気持ちを乗り越え彼岸に到る即ち極楽でこれを涅槃とも云い又無為静寂(むいしゃくじょう)とも云いますがこの様な處に行くのにはどうすればよいかその解決方法は「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、・・・中略・・・親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとの仰せをかふむりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」それで念仏より外にその色々な悩み、苦しみ、悲しみ等を解決する方法は何も知らないただ弥陀の本願を信じて念仏した時に救はれるのだと親鸞聖人はお教えになったのです。

もし念仏より外に何か有難い事やひそかに往生のための方法とか釈尊の教えの教義等を知って教えないのだろうと疑いの心を持って尋ねて来られたのなら全く間違いであると力強くお弟子達に云はれたのであります。

あなた方がその様に疑って来られたのならば南都は奈良北嶺は比叡山であります。奈良や比叡山にすぐれた学者たちが大勢いられるからその学者に会って往生の要(かなめ)即ち往生の一番大切なところを確りと聞かれたらよろしい。と力強く往生の大道は念仏であると遠路はるばる命がけで来られたお弟子達におっしゃったのであります。