翠風講 ニュースレター42号|御垂示 余語翠巌

格外の風光 余語翠巌

私共が今生きている世間にはさまざまな価値があって、人はそれぞれに何かの価値を求めて人生をいとなんでいる。お金を尊いと思い、芸術に至上の価値を求め、道徳的に立派であろうと思い、それらが入りくんでいろいろなあやを作り、利害得失の日々をくり返しているようであるが、意地悪く考えて見ると、すべての価値とされるものが、人間の世界でだけ、通用していることのようである。

私はいつも面白く感ずるお話で、よく人様にもいうことであるが、それは盤山という人のことである。この人は唐の頃の有名な禅匠馬祖道一のお弟子であって、肉屋の店頭で悟ったといわれている人である。肉屋へお客が来て、「よい肉を呉れ」という、肉屋の主人が、「おれのところには悪い肉はおいてない」という、そこで盤山和尚は成程と悟ったという。どういう風に成程かよくわからないが、蛇足をつけて見ると、肉屋の店頭には今でいえばロースから上中下と分けて序列がついている。おいしくてやわらかいロースから、固くてうまくない肉まで並べてある。それは、あたり前だといえば、それだけのことで何の不思議もないが、少し考えて、何を基準として並べるかといえば、人間の舌の味加減によるわけである。そのロースや中肉が牛のからだについていた時は、上も中もあるわけではなくて、それぞれの役目をそれぞれに果していたことと思う。されば人間の間で通用していて誰も疑わない道理がどこにでも通用すると思うわけにはいかぬ。人間が生きているのだから、仕方がないではないかといえば、それもそうである。されど、それが人間界だけで通用しておるのだということをよく心得るべきだというのである。美人などといっても時代が異なるに従って基準がかわる。丸顔と面長、やせがたとぽっちゃりと人の好みの問題だという。道徳といえども、その基準はうつりかわる。恋愛は御法度といわれた時代もある。近松の芝居などはそのよい見本である。恋愛は悲恋として描かれ、心中行となるわけである。現代では想像もできぬすがたである。

法律というものも、不動のものがあるわけはない。現代の日本国憲法も、戦後三十余年のいのちであり、世界中何千年も続いた憲法などありはしない。この頃は「憲法違反」といえば錦の御旗をかざしたような風に考えておるようだけれども、やがてまた、どうも都合が悪いということになると、変えようではないかということになれば、相談の上変ってしまうことである。几ては人間の約束ごとだから、あてにならぬ。人間の都合を超えた天地の道理でないからである。されど、道徳、法律に従わなくてよいというのではない。従わなくてもよいけれども、それは、その社会、そのグループの中に安全に住むことはできぬことを思わねばならない。戦争中に反戦をとなえた人々のことを思えば思い半に過ぎることである。国が戦争をすること自体が大義名分化されている半面がある。されど″ 「一人を殺して罪人となり、百万人を殺して英雄となる」といわれていることの不合理を思うとき、戦争は団体的利己主義のよき見本である。国境のない世界が現出すれば戦争はなくなることであろう。しかしそうなるまでに何千年、何万年の年月がたつことであろうか。いつであったか、米国の大統領が宇宙へ旅立つ字宙衛星にメッセージを記し、このメッセージが開かれる時―― あるいは永遠にそんな時はないかも知れないが―― それは三万年か四万年の先のことと思われるが、その時は地球上にても、国境などは無くなつて世界中平和な時代が来ているかも知れませぬが云々と誌したと聞いて、その位さきのことであろうと思われることである。

法律、道徳は、その意味において、大小いろいろなグループの中のきづなであり、それぞれ閉鎖社会のおきてであるにすぎぬ。人々はその中にあってボケていることが多い。面白い小話がぁる。数人の盗人が物をぬすんで来て、分配しようとしたところ品物が足りないので、皆が顔を見合せて、「この中に盗人はおらぬはずだが」といつたという。利己心に貫かれている個人、グループが充満していることを想えば、世の中のさわがしさも、荒波もよくわかることである。世の荒波といえども、皆それぞれがぶっつかることである。お互いさまが波をかきたてておることであるお互いさまが波をかきたてておる本になるもの、その価値自体があてにならぬという認識から出発するのが、禅のめあてのようである。禅といういい方から何か特別のものがあるように思われ勝であるが、別物があるわけではない。天地の道理ともいうべきもので、人間界だけで通用する道理を越えたものである。人間の世界における価値が相対的であり変遷常なきものであり、人間の道理都合を越えた、天地の道理があることに気付くと、人間はもっとおとなしくなることと思われる。

されば、唐の頃に書かれた古い禅書『信心銘』の冒頭に、「至道は無難なり、唯棟択を嫌う」と述べられてあることを思う。棟択というのは「より好み」ということである。あれが善くて、これが悪い、あちらがきれいで、こちらが醜ぃというような風に考えて、よい方をとり、わるい方を捨てるというようなことをするなという、そうすれば至道― 至極の道理は容易に手に入るのだということである。考えて見れば、幸と不幸とどちらとも考えない時がほんとうの幸の時だというのである。前が幸で、今が不幸だと思い、前は不幸であったが、今は幸であると思うのは、自分の生涯の中で比べていることである。祖師の言句の中に「茶に逢うて茶を喫し、飯に逢うて飯を喫す」とある。茶と飯を比べるのでなくて、茶の時は茶、飯の時は飯を頂くというのである。人間界の中の価値の序列に、絶対値を認めていないのである。善悪美醜も人間のはからい、凡夫の世界の出来事というのである。古来、「世間虚仮、唯仏是真」といわれる世界である。これを格外に超越すというのである.

馬祖が弟子の智蔵、懐海、南泉と月見をした時に智蔵は「正に好し供養するに」といい懐海は「正に好し修行するに」といった時に、南泉は独り袖を払って立ち去って、馬祖のほめ言葉をもらったという、それが最初に述べた格外に超越すというのである。供養したり修行したりすることは尊いことである。されどそれは、凡夫のはからいの世界の出来事であるとの意味合である。人間のはからいを超えた世界それが天地のいのちであり、仏の世界であり、阿弥陀様の光明世界であり、一本一草の末に到るまで、その光明に照らされてある世界である。されば、人間世界の善悪是非のかかわらぬ世界である。お互いにそういう世界の中のかざりとして生きておるわけである。道徳の世界と混合して考えてはならない。現実に道徳の世界と宗教の世界と別々にあるわけではないからときどき間違うわけである。「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」ということは道徳の世界からはわからない世界である。無所得、無所悟の坐禅というのは、凡夫のはからいの坐ではない、格外に超越して見れば、何をか求め何をか捨てん。欠ける所なく余ることなき世界である。その中においての一起一歿である。

(昭和五十二年一月)余語翆巌著「去来のまま」より