何時の頃からか、毎日坐禅をしなければならないと思った。そして、現在は、朝起きてすぐ坐禅をするように習慣ずけた。サラリーマンの小生には朝の出勤前の一時は、軽い柔軟体操、洗面、お手洗い、朝食身支度等を如何にこなすかで分、秒刻みの忙しさである。初めの頃はここに坐禅の時間を入れることは、不可能であると頭から決めていた。

だが、思い切って、一分間、形だけでも坐禅をしようと朝の諸事の流れの中で、柔軟体操の後に入れた。そして、自分で「一分間坐禅」と名付けて今でも続けている。勿論「威儀即仏法」であるから、仏像(文殊菩薩)への礼拝、坐蒲への合掌低頭(隣位問訊)、後ろへ向きを変えて合掌低頭(対坐問訊)、出来るだけ絡子を掛けて—-。経行は省略している。目を洗い、口をすすぎ、香を焚きとは残念ながら出来ない。それでも実際のところ一分間では無理で三―五分要している。

この「一分間坐禅」は「三分間坐禅」とか「五分間坐禅」と名付けるべきかも知れない。ただ、とにかく毎日短時間でも坐禅をすると言うことを表現したかったのである。ある禅兄は、はからずも「瞬間坐禅」と呼んでくれたが—-。

坐禅は常に工夫弁道すべきと心得ている。今の小生の坐禅の仕方が最善とは思っていないし、環境も変わるであろう。何れ最高のパターンへ進化したいと願っている。

「曹洞禅グラフ」No. 75 (2001) の「巻頭の言葉」として大本山永平寺貫主宮崎禅師様が、「仏道は、朝三分の端座から」とお書きになっておられるのを拝読して( “—-日のはじまりに、たとえ三分でも五分でも坐って下さい“と結ばれている。)、平井講元様の強いお奨めに応じ、恥を忍んで翠風講の皆様のご参考に供し、ご批判を戴くこととし、一文をしたためた次第である。

平成十三年一月記