禅の道

第161号四8・5・1
末世に就いて御説明致します。末世とは末法の世と云ふ事で釈迦が入滅されてから数えて千年(或は五百年と云ふ人もあります)を正法の時代と云い次の千年を像法の時代と云いその両時代を過ぎた後の一万年を末法の時代と云い三つを合わせて正像末の三時の考え方であります。

正法の時・・・釈迦がお説きになりました教(おしえ)行(ぎょう)證(さとり)が正しくある時代
像法の時・・・像とは似ていることで形の上では正法が残っておりますが教(おしえ)行(ぎょう)のみあって證(さとり)のない時代
末法の世・・・正法像法の時代が終わって教(おしえ)のみあって行(ぎょう)證(さとり)のない時代

丁度鎌倉時代初めの頃は末法の世に当る初めで社会的にも自分自身に対しても危機観を感じ捨鉢的にその日を暮らして行く人達も多い様でした。親鸞聖人はこの末法の世を重要視されこの何も出来ない愚かな凡夫であるから阿弥陀仏の本願を信じて本願にお任せして正法を護持して行くべきではないかとお説きになったのではないでしょうか。親鸞聖人は八十才以上の御高齢になられてから澤山の正像末法の和讃をお作りになられました。

第170号48・5・1
仏教信仰の基は釈尊の教えに帰依する事で御座います。深く仏法僧の三宝を敬ひ帰依する事で御座います。信仰心なくただ学問として仏教を研究し又仏教美術として仏像や書画建築その他を観賞する様には致し度く無いと思っております。あくまでも信仰ですから信心を持って生活の糧として日々を報恩感謝の生活が出来ます様に努力を仕様では御座いませんか。お葬式をしたり法要をしたりするばかりが仏教では御座いません。その日その日を苦労して一生懸命働いている私達を励まし喜びを与え家族揃って安住させていただくのが仏教だと存じます。

遠くに佛を求め菩提(さとり)を求め幸福を求めるのではないのです。自分の住んで居る家庭の中に、自分の心の中に佛はあるので御座います。浪曲師がよく一番最初に云います文句に

傀儡師(かいらいし)胸にかけたる人形箱
佛出そうと鬼を出そうと

と御座います。佛を出すか又鬼を出すかは皆その人にあるので御座います。心は常にその時々に依って変わります。努めていかなる環境にあっても和顔愛語の気持ちを持って人に接し度いもので御座います。親鸞聖人始め多くの祖師方は末法に対するそれぞれのお考えを持って居られましたが道元禅師のお考え方を正法眼蔵随聞記に依ります示として云く、世間の人多く云く「学道の志あれども世の末なり。人くだれり。我が根劣なり。如法の修行に耐ふべからず。ただ随分にやすきにつき結縁を思ひ他生に開悟を期すべし」と・。
今は云くこの言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅増しき心、下根なるもあり。佛、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり、非器なりと思ふ事なかれ。修行せば必ず得べきなり。既に心あれば善悪を分別しつべし。

第171号48・5・1
手足あり。合唱行歩にかけたる事あるべからず。仏法を行ずるに品を選ぶべきにあらず。人界の生は皆是れ器量なり。余の畜生等の性にては叶ふべからず。学道の人はただ明日を期することなかれ。今日今時ばかり佛に随って行じゆくべきなり。解釈させていただきます。また道元禅師が云はれました。世間の人は多く「仏道を修行しようと云ふ気持ちはあるのですが、世は末法の世であり。人の素質も低下し劣っており。佛の御教え通りの修行には到底耐えられそうにありません。ただ自分の力に随ってやさしい方法に従って佛縁を結び、今度生まれ変わった時には佛の御教え通りに修行して悟りを開くことをのぞんでおります」と云って居りますが、しかし今自分が云ひたいのはこの言は全く間違って居る事である。

仏教で正法像法末法の三時に区分し云ふ事は仏法に帰依させる仮の一つの手段ではあるが真実の仏法は決してそうではない。釈尊の教えに従って修行すれば今でも皆悟りが得られるのである。釈尊が御在世の時の僧が必ずしも皆すぐれて立派であったのではない。思いもつかない世にも稀なあさましいあきれる程のひどい気持ちや修行能力の下劣な人もあったのである。釈尊が種々の戒法(いましめ)を分けて設けられたのは皆よくない人々や生まれつきの劣った素質を持った人々のためなのである。(この様にその時代々々に依り正像末の三時を分け人々が末法の世には修行能力の無い下劣であると云ふのは間違って居ると云はれました)

人々皆それぞれ仏法を信ずる能力は生まれながらにして備って居るのである。自分はその様な能力は無い下劣な者であると決して思ってはいけないのである。佛の御教えに従って一生懸命修行すればどんな人でも必ず悟りは得られるのである。人には心があるから善い悪いの分別は出来るであろうし又手足があるからには合掌をしたり又歩行には不足はないのである。それであるから佛の御教えを行なうにはそれで充分であって素質で区別する様な事はいけない事である。人間界に生を受けたものは皆区別なく平等に仏法を信じ行ずる能力は備って居るのである。人間界を離れた畜生などの世界に生まれたものには出来ない事である。

仏道を修行する人は今からすぐ始めなくても明日からでも遅くないと明日をあてにしてはいけないのである。今日この瞬間のみと思って佛の御教えに随って油断なく修行する事が最も大切な事である。